2019年8月31日土曜日

訃報


夕方、今夜はだれもいない日なので、夕闇迫る頃になって、
コインランドリィで乾燥させた洗濯物の山を抱え、腕にこたえる買い物袋をもち、
家に帰ってきた。すると玄関の前に男の人がいるのである。
かすんでよく見えない眼をこらすと、その人影はしゃがみこんで必死になにかしようとしている。手持ちの荷物やスマホなどをそこらに置き散らかして、メモのようなものを書こうということらしい。白いワイシャツの下の背中や首が、夜目にも汗びっしょりになっている。
暑い暑い夏の一日が、まだ終わろうとしない時刻・・・。
見覚えのない姿に、私はこわごわ声をかけてみた。
「あのう、どちらさまでしょうか?」
すると、むこうもはむこうでビックリして、はじかれたように姿勢を変え、立ち上がり、
距離を置いたまま、「あのう、久保さんでいらっしゃいますか?」ときくのである。  
この夕闇とおなじ、苦しいような湿度を感じさせる声音であり、
はらはらしてしまったような、実直で礼儀正しい物言いであった。
彼は私に、太田友子のつれあいですと名のった。

・・・なぜだか私は、階段の下で荷物を抱えたままの私には、夏の風が伝えてよこしたように、ああ、太田さんは死んだのだと、不意にわかったのだった。


   

2019年8月11日日曜日

5才


天井まで本があって、遊びあきると本棚の前に立って、
ぴょんぴょん片足で立って、わかる字をさがして読んだ。
ひらがなの本の背表紙はふたつしかなかった。
「かひしなの」それから「なすのよばなし」
かひしなのは論外だったが、なすはわかる。葉山の畑で見た。
祖母が小さい私に、眠るまでお話をしてくれたから、
ひるがあるし、もっと起きていたくても、夜も毎日くる、
夜がくると、ナスの畑にもなすの夜があるらしい。
こどもにだけ夜が毎日くる気がしてたけど。

あのナスたちが、夜になると自分で話し始めるなんて、知らなかったと思った。
枝からさがって、風にゆれながら話すのかしら、大きなはっぱの下で。
だまってする会話。
なんにも言わないナスもたくさんいる。
でもなにかいうナスもたくさんいる。
きこえない声の、ナスのおはなしが畑をわたってゆく。
みおろす淡い月の光が見えるような、印刷のうすい背表紙だった。
夏の夜で、
涼しい風が畑にふき渡り、
森のたぬきや川の近くのキツネが、家族でおはなしをするように、
ナスたちもおともだちどうしで、ひるま見たことを話しているんだ・・・。

私の思いこみは、そのまんまこどもの記憶のなかに埋もれて、
ときどき、ふーっと浮かんでは消えてしまう。
・・・ナスたちは、時々、私のあわい月の光の下にいる。
風に吹かれて、涼しい夜をみんなで楽しんで。

あのころは、夏でも夜になると、涼しい風が吹いた。
電気がそんなになかったから、夜になると地球が冷えたらしい。
あついあついと、ちいさな孫が夜でも汗をかいて、おこると、
祖母がうちわで、ずーっとあおいでいてくれた。
うちわにも、すこし涼しいのと、ぜんぜん涼しくないのとがあって、
そんなことでぐずった・・・。



炎熱をガラス戸越しに眺めて



 考えてみれば、マイケル・ムーアが「ボーリング・フォー・コロンバイン」を
製作監督しアカデミー賞に輝いたのは17年も前のことだった。
私は10年以上も前、中古になったそのビデオ・フィルムを買ったんだけれど、
今日の夕方から、今ごろどうかと思うけれど、暑いから観たのである。

 一日中、暑く、炎熱ゆらぐ日盛りがこわくて、外にも出られない。
夕方やっと、草や花がどうにも気の毒で庭に水を撒くと、網戸越しに入る風が
子ども時代の夏風めいて、それでやっとクーラーを消すことができた。
今ふう日本の、残酷きわまりない夏ではある。
年のせいかなんなのか、たぶんに鬱気味で、私はただもうぼーっとして、朝刊を読み、
一日三冊ぐらいの本をあっちこっちとばし読みし、古い映画をツタヤで借りては
連続して観たりする。あとはメールと長デンワであって、
この受け身の毎日がいかにも気に食わないし、なんとかしたい。
でもなんとしても、どうにもならないのである。

 ある日、こんな自分がどうしてもイヤで、三日ぐらい煩悶したあげく、
夕方から草取りを始めた。なにがなんでもやってやる!! 
三つのお皿に三個の蚊取り線香、長袖長ズボン、首にまくタオル、植木バサミ等々、
ヤブ蚊の軍隊と戦いつつ、草と花と小笹の根っこ、紫陽花の枝などなどを伐りまくり引っこ抜くわけである。70キロのゴミ袋がいっぱいになる頃には、あーら嬉しい、
すらりと日暮れがやって来たではないか。
水を撒いたから泥だらけでビショビショ、あっちこっち蚊にさされて、
まー、76才としてはヨイ成績で喜ばしいと思う。第一、心なしか涼しいじゃないの。
外に出たらすごくあつかったから、ちょっと涼しくなっても涼しいわけで、
もうけたと思うよこれ、よかった。
年齢不相応は、みっともなくて落ち着かないが、
こうでもしないと気持ちの厄介払いができない。
鬱うつに甘えると・・・ホントの鬱病になりそうな。

 さてそれで、「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
マイケル・ムーアは、この作品によってアカデミー賞受賞者となり、一躍全世界に紹介された。アメリカの「なりふり構わぬ資本主義」に対する彼の厳しい批判が、大資本を投入したエンタテインメントの派手派手作品群の中で、なぜかどうしてか、あの時ばかりはちゃんと評価され、ムーアの以後の作品群の運命を保証したのである。

「なりふり構わぬ資本主義」は、貧困層の親と子を引き裂き、生きぬよう死なぬよう低賃金で働かせ、ついには子どもが子どもを殺す殺人者になってしまう。
マイケルムーアは「銃器社会」に焦点をあて、アメリカの残酷、アメリカの不公平、
アメリカの人種差別、アメリカの傲慢、アメリカの卑怯を、アメリカの手前勝手を、
アメリカがそういう仕組みの社会になってしまった原因を、隣国カナダと対比する。
わかりやすく原因を映像化し、「暴露」する。
しかもそれだけではなく、被害者とともに、あるいは自分だけで、支配者と交渉し、資本主義に変更を加えよ、態度を改めよと迫るのである、映画の中で実際に。

こんな映画が日本にあるだろうか。
ある。私はそれを今年の多摩市平和展の催しで、観たのである。
「沖縄スパイ戦史」って、タイトルがすごいので散々迷ったけれど、誘って下さった方がよい方でしかもご近所さんだったから、それに監督がふたりの女性だったので、
-------酷暑だし、どんなお誘いも有り難いと思わないとボケてしまう。
それで出かけたら、もう本当に女性ならではの素晴らしい映画だった!
しかしながら、この日本映画はなかなか観られない。
どこで上映されているのやら、観ようと思っても探すのがタイヘンである。

 私のおすすめは、この夏、
マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
それなら、ツタヤにある。
17年というどっしりとした時の経過があって、
このドキュメンタリーは、現代日本が「まるでアメリカにソックリ」であり、
しかもどうしてそうなってしまったのかを、
驚くほどクッキリと説明してのける映画になったのである。