2019年8月11日日曜日

炎熱をガラス戸越しに眺めて



 考えてみれば、マイケル・ムーアが「ボーリング・フォー・コロンバイン」を
製作監督しアカデミー賞に輝いたのは17年も前のことだった。
私は10年以上も前、中古になったそのビデオ・フィルムを買ったんだけれど、
今日の夕方から、今ごろどうかと思うけれど、暑いから観たのである。

 一日中、暑く、炎熱ゆらぐ日盛りがこわくて、外にも出られない。
夕方やっと、草や花がどうにも気の毒で庭に水を撒くと、網戸越しに入る風が
子ども時代の夏風めいて、それでやっとクーラーを消すことができた。
今ふう日本の、残酷きわまりない夏ではある。
年のせいかなんなのか、たぶんに鬱気味で、私はただもうぼーっとして、朝刊を読み、
一日三冊ぐらいの本をあっちこっちとばし読みし、古い映画をツタヤで借りては
連続して観たりする。あとはメールと長デンワであって、
この受け身の毎日がいかにも気に食わないし、なんとかしたい。
でもなんとしても、どうにもならないのである。

 ある日、こんな自分がどうしてもイヤで、三日ぐらい煩悶したあげく、
夕方から草取りを始めた。なにがなんでもやってやる!! 
三つのお皿に三個の蚊取り線香、長袖長ズボン、首にまくタオル、植木バサミ等々、
ヤブ蚊の軍隊と戦いつつ、草と花と小笹の根っこ、紫陽花の枝などなどを伐りまくり引っこ抜くわけである。70キロのゴミ袋がいっぱいになる頃には、あーら嬉しい、
すらりと日暮れがやって来たではないか。
水を撒いたから泥だらけでビショビショ、あっちこっち蚊にさされて、
まー、76才としてはヨイ成績で喜ばしいと思う。第一、心なしか涼しいじゃないの。
外に出たらすごくあつかったから、ちょっと涼しくなっても涼しいわけで、
もうけたと思うよこれ、よかった。
年齢不相応は、みっともなくて落ち着かないが、
こうでもしないと気持ちの厄介払いができない。
鬱うつに甘えると・・・ホントの鬱病になりそうな。

 さてそれで、「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
マイケル・ムーアは、この作品によってアカデミー賞受賞者となり、一躍全世界に紹介された。アメリカの「なりふり構わぬ資本主義」に対する彼の厳しい批判が、大資本を投入したエンタテインメントの派手派手作品群の中で、なぜかどうしてか、あの時ばかりはちゃんと評価され、ムーアの以後の作品群の運命を保証したのである。

「なりふり構わぬ資本主義」は、貧困層の親と子を引き裂き、生きぬよう死なぬよう低賃金で働かせ、ついには子どもが子どもを殺す殺人者になってしまう。
マイケルムーアは「銃器社会」に焦点をあて、アメリカの残酷、アメリカの不公平、
アメリカの人種差別、アメリカの傲慢、アメリカの卑怯を、アメリカの手前勝手を、
アメリカがそういう仕組みの社会になってしまった原因を、隣国カナダと対比する。
わかりやすく原因を映像化し、「暴露」する。
しかもそれだけではなく、被害者とともに、あるいは自分だけで、支配者と交渉し、資本主義に変更を加えよ、態度を改めよと迫るのである、映画の中で実際に。

こんな映画が日本にあるだろうか。
ある。私はそれを今年の多摩市平和展の催しで、観たのである。
「沖縄スパイ戦史」って、タイトルがすごいので散々迷ったけれど、誘って下さった方がよい方でしかもご近所さんだったから、それに監督がふたりの女性だったので、
-------酷暑だし、どんなお誘いも有り難いと思わないとボケてしまう。
それで出かけたら、もう本当に女性ならではの素晴らしい映画だった!
しかしながら、この日本映画はなかなか観られない。
どこで上映されているのやら、観ようと思っても探すのがタイヘンである。

 私のおすすめは、この夏、
マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」である。
それなら、ツタヤにある。
17年というどっしりとした時の経過があって、
このドキュメンタリーは、現代日本が「まるでアメリカにソックリ」であり、
しかもどうしてそうなってしまったのかを、
驚くほどクッキリと説明してのける映画になったのである。