My Mother said that I never should play with the gypsies in the wood, The wood was dark; the grass was green; In came Sally with a tambourine. I went to the sea-no ship to get across; I paid ten shillings for a blind white horse; I up on his back and was off in a crack, Sally tell my Mother I shall never come back. -Songs of Mother Goose-
2020年9月30日水曜日
朝6時
2020年9月29日火曜日
多摩丘陵病院へいく
2020年9月27日日曜日
ゴーヤ料理
2020年9月26日土曜日
内田るんという人の話
2020年9月25日金曜日
時間の案配
2020年9月15日火曜日
あらしの前に 9/24
2020年9月14日月曜日
世間のひと、という本
2020年9月13日日曜日
ブログに復帰
2020年9月6日日曜日
ゴリラの本
「ゴリラからの警告」という本を前に、朝からぼんやり。
ぎんぎらぎんのお天気をまえに、どうしようもない。
もうくたびれちゃって、ゴリラがなんだって?と、お手上げだ。
この本がどうやって家にきたのかも、よくわからないし。
新聞によると、今日はあとから恐ろしいほどの暴風雨がやってくる。
ゴリラから学ぶべきだというこの本は、
山極さんが、野生のゴリラから学んだ話である。
山極寿一という人は、魔法使いにちかい。
霊長類学・人類学者・理学博士・ゴリラ研究の世界的権威である。
長野県地獄谷を皮切りに、日本全国のサルの生息地を渡り歩いた。
ゴリラたちが根負けするまで追いかけ、生活を共にして観察調査。
山根さんとゴリラたちは、おたがいのルールにのっとって相手を観察、
ついに帰って来たときには、人間のほうがヘンにみえたというけど、
そこから人類の起源という話、ヒトはかくあるべきだろうというこの本、
「人間社会、ここがおかしい・ゴリラからの警告」が出現する。
この人は、それでなおかつというとヘンだけれど、京都大学の総長になった。
?!病院で待つあいだに、なんとかここまでの話をのみこむ。
血液検査の結果けっこうな状態ということになった 、ゴリラじゃなくて私が。
2020年9月4日金曜日
1家に1冊 おすすめ
岩波新書「作家的覚書」 高村薫
難しい本だろうか?
それがそうでもないというのが、自分なりの感想だった。
「難しい本」なんだろうな、という先入観は、
2014年から2016年までの時事評論で、高村薫だと思うそばから、
図書館にいる私にとりついた。
でも、読みやすい本だった。
岩波の「図書」という宣伝用小冊子(ただでしょ?)の連載だったので、
時評ひとつが、とても短い。2ページ読むとおわり。
それも、読みやすかった理由かもしれない。
たいていの人はだれでも時事評論なんか読みたくないと思うけど、
読まなくて政府にまかせっきりにすると、たとえばコロナ禍を皮切りに、
信じられないほどの悪政が、私たちを絶望させるわけで。
大人が、あるいは子どもでも、女でも男でも、
義務として知っておかなくちゃいけないことが、人間にはやっぱりある。
学校ならば「社会科」という科目。クラス運営という仕掛け。
これはいつか来る選挙権行使のための予備科目である。
本書の編集者がいうには、この本は、
「日本がルビコンを渡った決定的な時」の覚書、なるほどそういう本だと思う。
私は、読みやすさにつられて、おしまいまで読んだ。
高村さんは、文章の起承転結、そのぜんぶを書くひとである。
どんなに短い「短文」にも、起承転結。
律儀でまーじめ。
私はどうか、と比べては申し訳ないが、つい比べると、
私の場合、起と承 まで書いて、一転して村の噂話みたいにしてしまう。
読む人をなんだか、笑わせたくなるのだ。
これじゃ、たぶん一応騒ぐばっかり、誰の参考にもならないだろう。
高村さんは、ちがう。
高村さんは、わかりやすくて、親切な書き手だ。
彼女はどんな社会現象からも、逃げない、目を反らさない。
見事なほどの直球勝負で、ふらふらごまかすなんてことはしない個性である。
私は、「作家的覚書」は必読の書であると思う。
そう思うわけは、
苦手な社会科に取り組む義務が今こそわが国の大人ぜんぶにあると思うから。
読み手の期待に応えようとするこの作家の努力が、
おどろくほど真剣で、優しいからである。
2020年9月3日木曜日
歯磨きのチューブ
忙しい日。
なにか思い出そうとしても、記憶に残るできごとが、ひとつしかない。
冷蔵庫の扉をひらいて、緑茶がそこにあるはずと、上の棚に手をのばしたら、
掴んだのは、歯磨きのチューブで、シュミテクトとかいう・・・!
なんでも薬用高濃度フッ素配合だった。
たしか2、3日前にさがして、ないと意識したおぼえがあるけど、
どうしてまた、私ってそれを冷蔵庫なんかにしまったのか!?
今までにも、冷蔵庫に自分のお茶碗をしまおうとしたことがあって、
うちの中に自分しかいなくても、どうかしてるアハハハと笑ったが、
それはもちろん、事前に気がつくから笑えるのである。
忙しい日だった。
とにかく。
これだと、たぶん塩分過多かも。
でもお医者さんは、あなたの食生活はそのままでいいですよ、となぜか言う。
自己申告で、問題はアルコールとお菓子ですと、私は話すけど、
それをできるだけ控えてと先生は言い、うーん出来ませんと私は言う。
「ま、いいでしょう、そんなに飲まなければ」
そんなに飲めないのよ、食べられないし。
もしかしたら、自然はうまくできているのかもしれない。
実習の話を息子から聞いては、晩ご飯の時どっと笑ったりしてるけど、
そんなに食べられない。とくにお米がダメだ。
片手で能力をのばし、一方で歯磨きを冷蔵庫にしまう。
ボケているかもの一方で、スピード5品目。
大丈夫、けっこういい線いってると考えることにした。
夜、DVDをふたつ。
「新聞記者ドキュメント」と「ホテル・ムンバイ」
日本の話とインドの話である。
新聞記者の話には、
このたびの総裁選第一候補(まちがいなくこの人が次期首相だろう)の
菅官房長官がたびたび記者会見に登場する。
冷たい顔つきの、あからさまな「言論の自由」への高慢・嫌悪・不公平。
彼の、差別意識まるだしの氷のような不機嫌に胸をうたれる・・・。
なんて恐ろしい人だろう。
この人にも家族はいるのだろうかと怖いようだった。
「ホテル・ムンバイ」はテロリズムの、これはドキュメンタリーではなく、
事実にもとづいて創作されたドラマ、事実の商業的再現、大ヒット作である。
こわくても目が離せないほど凄まじく、しかも華麗なエンタテイメント。
絶望的な映画なのに森達也監督による「新聞記者ドキュメント」よりは、
登場するどんな人にも、血の通う立場というものが用意されている。
虐殺を描いて、なおかつヒューマン、という映画。おもしろく見た。
虐殺の周辺にヒューマニズムがみえる、それは人間の願望にすぎないのかも。
それにつけても自民党は、これからどこに私たちを引き摺っていくのだろう?
首相になるだろう人の実写から伝わってくる未来は 、
いよいよ言論の自由や、あたたかな理解力や、人間らしい愉快な柔軟性が、
どうしようもなく失われるだろうことを予感させるコワイものだった。
2020年9月2日水曜日
部屋の模様がえ
一日中、時間が足りなくて、とうとう自転車で買い物に。
夜中近くになって、ソファのカバーを変えようという気になって、
青に、替えてしまう。
人によっては、こんな道楽とは、まるで無関係だろうなと思う。
でも、私はどうしてだか、たいして絵画的でもないのに、
模様替えをし、あれこれ、今までは赤でまとめていたというのに、
ソファの覆いを青い更紗にして、そこからもうずーっと、
なんというか、じゅんばんに 部屋を青くしようとするのだ。
壁に掛けている額装立派な、永井潔さんの絵はどうしよう。
濃い深緑が沈むばかりの、「青」とも「藍」とも無関係な沼の絵。
むかし私は、幼稚園の園児の絵を一枚、むりやりもらった。
その、彼方という名まえの子どもの絵が青い色づかいの絵であったならば、
それは魚の絵なんだけれど、私のソファのこんどは藍色に合わせて、
むかいあった壁に、旅するあの青い魚の絵を掛けたってよかった。
ああざんねんなことに、
彼には完全な自由がなかった、まだ子ども、いいえ幼児だったので。