2021年3月20日土曜日

アイルトン・セナ


古いフィルムだ。アイルトン・セナの映画を観た。
素晴らしいドキュメンタリーだったなあという記憶がある。
何年ぶりだろうか。
F1のRacerの
事故死。

F1の会場は、世にも騒がしい「マシーン」の「レース」の、
そして熱狂した観客の「大歓声」が渦巻く桁外れな場所なのだろう。
闘うアイルトン・セナは、いつもどんな時も、カメラマンや新聞記者に、
それからファンたちに、「爆音」に囲まれていた。
レーサーだから、ライバルたちの敵意にも。

それだからなのか、
それだからこそ、なのか。
けたたましい世界のただなかで、
インタヴューされる彼は、おどろくほど単純におどろくほど正確に、
本音を語っている。
自動車業界のルール違反によって滅びて行くRacerの
生命の危険について。
その声は無力である。とどかない。
資本主義に滅ぼされる天才の物語り。

これはそれを攻撃し証明したかったヒトたちがつくった映画である。



2021年3月18日木曜日

卒業式あれこれ

卒業式 に行った。

私の子どもは(もう子どもじゃないけど)みんな3人とも、
なんとなく私に逆らえないというか、つねに気の毒なほど、ぐずぐずと、
このヒト卒業式にどうしても出たいんだな、というほどの?理解に至る。
当人にはそれがひどく迷惑でも、なんかこう母親が気の毒になっちゃって、
気の毒なのはイヤがって当たり前のそっちなのに、各自、自分をまげるのだ。

頭をチリチリ災難パーマにして、ま、いいかと仙川でハンバーグなんかたべ、
6時頃すっかり立ち直って家に帰ると、卒業式にくる? という質問。
とくに「あした卒業式」の息子がそういうヒトなのよねー。
彼が結婚したら、私は「おひとりさまの老後」とか、そういう道を選択、
そうしないとホント気の毒なことになるのだろう、おそらくみんなが・・・。

とか思って死ぬユメなんかみて眠って起きたら、今朝、本が郵便で届いていた。
朝刊の下に横たわっていたその本ときたら、
「在宅ひとり死のススメ」 上野千鶴子著 
ただもう、ドッカーンとビックリ。
・・・ ・・・あんまりグッドタイミングだったので。

おちつけば禍、いえ、かの本は、玄米用電気釜のカタログなんかがいっしょ。
「おひとりさまの老後」についての、電話なが話しをすぐ思い出し、
なーんだ、杖代さんなの~と。
彼女の走り書きによると、夫婦ふたりで同じ新書を買ってしまい、キレイな方を、
つまり新品同様の「在宅ひとり死のすすめ」を差し上げますって。

はははは  冗談じゃないよー。
卒業式のなにをかくつもりだったのか、わすれちゃったじゃないの。



2021年3月16日火曜日

パーマネント

明日は息子の卒業式で、
いまさらそんなところに見物がてら出かけたら迷惑にきまっているから、
あきらめてしまった。

迷惑を承知しながら、
以前、私はずーっと息子たちのライブ活動を見物していた。
我が国では、世代を気にせず若い人と意見交換をするなんて夢のまたユメだ。
でも私はどうしても縁のない若者と「討論」がしたかった!
思いもよらない意見を聴いてみたかった!
政治家じゃないけど、それは私の一生のテーマだったのだ。
だから20年以上もライブハウスに通い、敵意と迷惑そうな視線に耐え、
少なくともじぶんより40はトシ下の人たちのあいだに立って、
わかりもしない彼らのバクダンみたいなオンガクを聴いたのだ。
あやうく難聴になるところだった!
ウッカリばかでかい音をたてるスピーカーのまん前に立ったりしたからだ。

こんども、私は、どうしても卒業式が見たかった!
息子の通う職業専門校の同級生たちを、その何人かを見たいワケである。
20年下のクラスメイトと20年上の息子が毎日ベンキョー。
本人にとってはとんでもない苦しみだったにちがいないが、
学校(!)から帰って、今日はどんなことがあったの?と彼にきくと、
苦しいような、おかしいような、みょうにヘンテコリンな話をして、
もう私はゲラゲラ笑っちゃって、
あったこともないのに贔屓(ひいき)の子が3,4人できちゃって、
なんとかしてその実物がみたいわけである、卒業式をやるなら。
息子には毎日あってるから、卒業証書を受け取るところは見なくていい、
でもクラスメイトの、傑作中の傑作ちゃんをなんとかして見たいのである。

息子にわるいから、そういうことはキッパリあきらめたけれど、
前から予約していた美容室に、解約したけど解約をさらに解約し、
これが最後かもしれないと、以前からのざんばらチリチリ髪にしてもらった。
遥と同い年の美容師の斉藤さんは、いまは仙川の美容院にいる。
むなしい試み。でもま、いいか。
斉藤さんにも会いたいし。

できた! この頭だと、朝、手でひっかきまわせばいいし、
ドライヤーがないから、ちょうどいい。


2021年3月15日月曜日

本棚で見つけた詩


本棚から、偶然、手に触った小冊子を抜きだす・・・。
1997年の石川先生の詩集だった。
おぼえている人がいるかしら?
先生はお元気だろうか? 
痩身100歳まで、みたいな感じの方でしたが。
調布の地下の喫茶店をかしてもらって、先生の詩を脚色し、
朗読を劇団民藝の先輩にお願いしたっけ。
黒田卿子さんは、厳しくておっかない人だった。


詩集のあとがきの最初の1行にこうある。
いまはひょっとしたら「戦前」かもしれません。
38ページ
童話のようにながい一つの歌、それをここに置こう。



       一〇  一つの歌   石川逸子

     ここに
     1人の少年の篝火(かがりび)となった
     歌があります

     「埴生の宿」
     その歌の調べによって
     原爆孤児となった少年は 前へ進むことができました
  
     一九四五年夏
     先生に引率され
     広島県双三郡木村・大願寺に
     集団疎開していた 10歳の 島本幸昭
     国民学校四年生でした。

     伝わってきた広島全滅の知らせ
     さらに日本降伏のラジオ放送から
     十数日
     十歳の少年は ひたすら父母の迎えを待っていました
     だが 待てど待てど
     父 母 五つの妹
     その懐かしい顔は
     つい現れることはなかった・・・・・

      「大願寺の児らが手元に たらちね はらからより届きし
      文に、あるは狂喜し、あるは涙するも、それぞれが帰り                                       
      行く先、つまびらかになりぬ、されど、日夜待ちしが、一
      葉の文とて手になし得ぬ児、一人のみあり、ようやく憂色
      の濃さ増し、今はこれまでとて師、その児に申し渡しぬ。
      いつしか長月にも入りぬれば、彼岸花、そこかしこに燃え
      いたり」

     四カ月後 ようやく引き取りに来てくれた
     義理の叔母のところに 二年間
     六年生の秋には
     「戦災孤児五日市育成所」へ
     
     血を分けた叔父は戦死 わが子一人抱えて
     厳しい戦後を 生きていかねばならない叔母の
     やむない決断だったのです

     学校での最後の一日は
     一泊の芋掘り旅行
     夕食がすみ 賑やかに演芸会が始まる
     明日からの別れを誰にも告げていない
     十二歳の少年の耳に
     響いてきた 胸を衝く 少女たちの二重奏
 
     のちに「はにゅうの宿」と知った
     苦しい旅立ちへのはなむけに思え
     その旋律に 大きな安らぎと慰めを 与えられた

     それから いきなり投げ込まれた
     「戦災児五日市育成所」 の暮らし
     ひえきった少年の心に
     翌年春 暖かな水が注がれます
     通い出した申請中学校の音楽の時間に再び聞いた
     「はにゅうの宿」でした。

      「メロディーや詞を餓えたように貪り、感情の高ぶり押
      さえかねて、他人には判らない喜びに浸っているその時、
      先生から独唱する様に促された。彼女の弾くピアノ伴奏に
      合わせて一音一句を愛しみ陶酔して歌い終えると、一瞬、
      教室が静まりかえってしまい、怪訝な気持ちで先生の方を
      窺うと、彼女は自分の目頭を押さえてしばし無言の後、
      「とても幸せそうに歌っていたわ」と、いう言葉を聞いた
      私は、泪が自分にもこみ上げてくるのを覚えた」

    やがて 脱走 
    里子
    農家の作男として働き 自活しながらの進学
    ついに中学の音楽教師へ

    一つの歌が
    崩れかかる心を励まし
    生涯の篝火として
    少年を守りました

    その島本幸昭が
    両親と妹の終焉の地
    太田川をさかのぼった鈴張村・長覚寺を訪れ
    妹の最後の様子を知ったのは
    一九七四年九月
   
     「妹さんは、赤い模様のゆかたを来て、うつぶせになって
     亡くなっておられたそうです。
     5歳のかわいい女の子で、お父さん、お母さんは先に亡く
     なられました」

    本堂に置かれたオルガンの蓋を開け
    二十九歳の島本幸昭は 鎮魂の曲を奏でました。

    あどけない妹よ
    すがりつき甘えたい
    父母が先に息絶えて
    どんなに心細く 苦しい臨終を迎えたのか

    人類初の核兵器で
    焼け焦げた 父よ 母よ
    その手に 同じく焼け焦げた幼子を抱くこともかなわず
    どんな思いで
    あの天井 あの柱 あの御仏を眺めたのか
    あの川のせせらぎを聞いたのか

    清らかな オルガンの 調べよ
    天に昇り
    数知れぬ あどけない女の子たちの 
    苦悶の魂を静めよ


石川先生、あのころは、もしかしたらまた戦争になるのかもしれないと、
あなたの反戦の詩を、たびたび朗読したものでした。
1997年なんかというと・・・、
この国で原子炉が爆発するなんて誰がそんなことを
考えたでしょうか。

福島の3・11の日から10年。得体のしれないコロナ禍に振り回されて、
原子炉の爆発どころではないといわんばかりのふるさと日本です。

    
        

ああ、やっぱり


こわくて電話がかけられなかった2人に、電話をしたけど。
1人はでないだれも出てこない。わるい予感しかしない。

もう1人は、幸福が、微かにしか感じられないものであっても、
手のとどかない遠い、遠いむこうに光があるのだとしても、

やはり必ず命ながらえるだろう何か、なけなしの未来というもの、
それが彼にはあると思わせる、そういう彼は声のもちぬし。
若いとはこんなことなのだろうと思いあたって、
うれしかった。



2021年3月14日日曜日

小鳥、集金、もと首相


土曜日。雨の音を聴きながら、一日中ひとりだった。
桃の花をながめて、白湯を飲んで、それから・・・また白湯を飲む。
雨の音をきくばかりの一日。
柿の木のまわりで、小鳥が「いじめこふ」に追い払われている。
「いじめこふ」は、うちを縄張りにしている野鳥で、
私がまいたパンくずを、自分じゃたべきれないくせに、
見張って見張って、ほかの小鳥がくるのを許さない。
大雨なのにどっかの枝に隠れて見張っている、こまったもんである。

夕方、くらくなったころ東京新聞の集金の青年がきて。
こんな大雨なのに、寒いなかを本当にごめんなさいと謝ると、
・・・・・・寒いことは寒いんですけど、と言う。
「さっき空に虹が掛かっていて、それを見たから幸せでした」
寒さで固くこわばった若い顔が、一瞬だけ、短くニコリとした。
ああ、なんだかね、
すこし幸せをわけてもらったようでしたよね。

12日の夕刊の連載。
管直人氏(もと首相)について書かれていて、
昨日のTV番組をこの人も観たのだな、とうれしかった・感激した。

河合弘之連載「この道」より
    福島第一原発は全電源が喪失し、原子炉で核燃料が溶け落ちる
    メルトダウンが起きているようです。1号機に続き、十四日に
    3号機、十五日に定期検査中の4号機も水素爆発し、地上から
    冷却水を注ぐ作戦が行われていきます。
    (中略)
    当時民主党政権で菅直人首相です。管さんは震災翌日の十二日
    早朝に自衛ヘリで第一原発に赴きました。
    内閣府原子力安全委員会の班目春樹委員長や経済産業省の役人も
    当てになりそうになく、「誰がほんとうの事を言ってくれている
    のかわからない」と、自分で現場を確かめようとしたのです。
    被災地を空から眺め、吉田昌郎所長と会って、彼ならこの現場を
    任せられると思ったことは、その後の指揮に良かったはずです。
    (中略)
    自身のメルマガで、管さんの悪口を言った安倍晋三前首相だったら
    対応できたのかな。

余談であるが、このTV番組の司会者はなんという人か。
思いあがった傲慢不遜ぶりに、ふだんTVを見ないからなのか、
あっけにとられてしまった。
これって、この頃の流行なのかしら。
それともこの非礼は菅さんの実力を引き出すための「ワザと」なんだろうか?

手に汗をにぎったけれど、結局のところ、
どんなあてこすりや、傲慢無礼な断定や、威嚇にも、
管さんはビクともしないのである。
それはほんとに、ホッとするような嬉しい眺めだった!
司会者がどんなにバカにしても、肯定も反論も説明も菅さんは正攻法。
時間がたてばたつほど、政治家としての管直人元首相の力量が、
TVを見ている私達に伝わってくる。
こんなリアルなドキュメントなら、テレビだって勉強になる。
「格がちがう」とはこういうことだったのかと考えさせられる。
実に嬉しい眺めだった! 
どうしてかって良き人間について考えることは、私たちの楽しみだからだ。

ヒトを格付けするなんて間違ってると、なんとなく思ってきたけれど、
管直人に投票したことも私は無かったんだけれど、
とにかくあの日、久しぶりの元首相は、政治家とはかくあるべきという姿を
社会科の教科書並みにきちんと見せて、痛快だった。

十年前にこれがわかっていたらなあ、と思う。
そうできなかったのが残念でならない。
オランダにくらす遥にそう言ったら。だってさあ、と娘が言った。
「仕方がないよ、お母さん。管直人が総理大臣になった時、
自民党寄りなんだって感じだったしさあ。」



2021年3月11日木曜日

疲れた一日


「東京が燃えた日」戦争と中学生-早乙女勝元 

何日もまえに
この本を机の上において、
読もう読もうと思っても読めず、
とうとう何日もたってしまった。

わかりやすい、読みやすい本だ。
むかし読んだ岩波ジュニア新書なのだから、
おとなであれば、
いつ読んでもすらすら読める。名著だし。

午後、桜の花を見ようと、
パンを買いに桜並木のある道をとおるけど、
桜はまだ固い蕾ををみせているだけ。
誰もいない道だった。

建築事務所のまえで古本を買った。
THE FIRST RED MAPLE  LEAF
カナダの絵本、100えん。
瓶に100円入れる。

めずらしくTVを観た。
管直人もと総理大臣が出席している。
かつては、こういう政治家が日本を仕切っていたのだ。
ぜんぶ自分の言葉でいかなる質問にも答える人が。
責任から逃げない姿にしみじみ驚いた。


2021年3月10日水曜日

続く記念日


パソコンが定期点検からもどってきた。

76年前の今日は、東京大空襲、首都壊滅の日だった。
明日は、10年前に福島の原子力発電所が爆発した日である。



2021年3月8日月曜日

忘れるまいと思いながらも


図書館まで、赤木雅子さんの本を返しに行く。
「私は真実を知りたい」というあの本。
歩いて行くのだけれど、行くのも帰るのもタイヘンだった。
寒いし、そのくせ汗をかく。あつくなって、
とうとう歩きながら、アノラックを脱いでしまう。
足が重くて、重くて、いったいなんの加減だか。どうしたのだろう。

図書館で、新しくふたつ、本を借りた。
[ともしび]と「アノヒカラ」 小さい本。
展示されていて、すぐに借りることができた、どの本もどの本も。
二冊とも、原発事故の被災者からみた被災地の本である。
「ともしび」は2011年発行、「アノヒカラ」は2014年発行・・・。

2011年3月11日から、10年がたっている。
私にとって、長いようで、短いような、この10年だった。
あの日は幼稚園にいた。67才だった。
3分後に東京に地震が届くという速報を、職員室のTVの大画面で知らされた。
警報がいっせいになり始めたから、TVをつけたのである。
画面いっぱいにすさまじい津波が映し出され、
信じられないような崩壊と悲鳴が、今の今、リアルタイムで私達に届いた。



2021年3月6日土曜日

保母という生業

土曜日。甲州街道はクルマの行列。
神代植物公園は閉鎖中。なぜだろうかと解せない。
深大寺も、お寺周辺のお店やさんも、ちゃんと営業しているのに。
植物公園ならば大気のもとにあって比較的安全だろうに、残念だ。
梅の花も桃の花も、みられなかった。
ま、いいか。
多摩市ならば、公園は出入り自由だし、入場料もいらないし。

帰りに瓜生緑地による。ここの樹木は本当にすばらしい。
のびのびと、樹木の自然を考慮して造園がおこなわれたのだろう。
殺人みたいに枝を伐り刻まれたあとがない・・・
お池のそばにカラスが一羽。
ボール蹴りをはじめたら、身体中いたくって柔軟体操もいやで。
膝の屈伸もままならないし、やっとこさ血のめぐりがよくなって、
帰って来た。

帰ったら郵便受けに大学時代のクラスメイトから手紙がきている。
私と息子と、それぞれにあてた手紙と図書券が厳重に封をして。
文学部の教育学ともだち。

月曜日に私はふたりの80代の保母さんに会いにいったけれど、
保母さんってみんな、しっかり似ている。
手仕事のひとなのだ。いつまでも元気だし、筆まめである。
保母さんだった人って、大勢の仲間とずっと変わらず楽しそうに交流する。
交流相手も、見れば年々大幅(おおはば)に、
幼児が大人になっても、父母が年寄になっても、
職場がいっしょだった友人がとんでもなく遠くに引っ越しても、
宇宙の星雲のごとく、保母たる彼女たちの人間関係は、途切れたりしないのだ。
しかも、である。
トシをとればとるほど、しっかり賢くなっていくのだから、まあすごい。
彼女たちは、なにかの都合で連絡しなくなる、なんていう動物じゃない。
保母を生業(なりわい)にした人は、怠惰と絶対的に無縁なのである。
そういう職業・・・子どもたちを笑わせたいからやっぱりユーモラスだし。

たぶん、こういう人たちが、どうにかして民主主義を再建するのですよね。



2021年3月4日木曜日

悲喜こもごも


「かえってきたメアリー・ポピンズ」をTSUTAYAで借りて、観た。
イギリスの有名な童話をミュージカルにした、ステキな映画だった。
もう本当に楽しくてきれいで見とれてしまう・・・。
今日は昼間も映画を観た。「家族」という1970年ごろの映画だった。
「息子」と「家族」は山田洋次監督の最高傑作だと思う。
「家族」を観るのは二度目だけれど、昔この映画を観た時とはちがって、
はじめから胸がいっぱいになって、私は泣いてばかりいた。

あのころの日本はなんて美しかったのだろう。
万国博覧会が開かれた東京をすぎて、北海道の開拓村まで、長崎の離れ小島から、
貧しい家族が日本列島を、汽車に乗り新幹線に乗って、縦断してゆく。
貧しい苦しい話である。
人間の手におえない自然の中を、線路の両側いっぱいに拡がる畑の中を、
汽車がくるしむ日本人たちを乗せて疾走してゆく映画なのだけれど。
あのころの日本は、それでも自然で美しかったのである。


昼間、大橋さんと電話で話す。
大橋さんは瓜生緑地の近辺でグループ体操をしては家に帰るそうだけれど、
健の就職先がまさにそこら近くなので、
大橋Mr.は、これで入る介護施設が決まったと言ったとか。
体操のお仲間とあれこれ話す内容も、笑っちゃうみたいに具体的。
「父がそこでお世話になっていますという方がいて」なーんて言う。
いままでただの建物みたいな気がして近寄る気もなかったのに、
がぜん(だってとみちゃんの推薦だし)親近感をおぼえちゃって、
施設の名前まですらすら。私なんか今でもおぼえられないのに。
トシをとるって、こんな愉快な話もあるわけかとビックリ。
みんなでトシをとるって、こういう感じなのね。
田舎の村だと、養護施設だってひとつだろうし、みんなそこに行く。
うふふふ。なんだか、のんびりした話でしたよ。


2021年3月3日水曜日

雑貨見物

昨日は、雨がふったせいもあるけれど、
買い物その他、クルマであっちへ行きこっちへ行き、
しまいにD2(近所の巨大雑貨や)に出かけた。
健がアッというまに就職できた!ので、私たちは陽気になってしまい、
自転車を買いたいと見にいったのだ。
うちの自転車は、ぶじに走れているのが解せないぐらい古い。
なんでパンクしないのか、サッパリわからない。

一番、就職したかったところに、
先輩のとみちゃんのおかげで、ぽんっと、面接して就職がきまった。
そこは永山で、うちからは自転車で15分!
とみちゃんに教えてもらって、失業保険を頼りに職業訓練校に通った2年間は、
私にも健にも苦難の連続、
それが、国家試験にうかって卒業試験も終わって就職、という運びなのだから、
自転車を買おう、買おうと、つい思っちゃう。

自転車をみて(まだ買わない)それから健がD2をひとめぐりしようと言った。
私たちは、熱帯魚と、子犬と、子猫を、見た。
こんな売り場がD2にあるとは知らなかった。
私はすっかり憂鬱になってそこを出た。かわいそうで見ていられない。
ガラス箱に入れられて、赤ちゃんが、それは仔犬や仔猫なんだけど、
しょんぼり買われる日を待っているのだ。
可哀想でついまた買っちゃう人がいるそうなのでした・・・。



2021年3月1日月曜日

「私は真実を知りたい」・2

 
「私は真実を知りたい」を読んで、いちばん胸にのこったのは、
自殺した赤木さんの奥さんのお人柄だった・・・。
そして、このいかにものお人柄によりそって告発の日を迎えた
職業的記者としての相澤冬樹氏の仕事ぶりのことだった。

ふつうの日本人、という身分を私たちはどう表現すればよいのかしら。
市井の、だろうか?
市井(しせい)の人、とはごくふつうの庶民をあらわす言葉だ。
赤木雅子さんは、自分が本をだすなんて夢にも考えたことがないだろう。
趣味はトッちゃん(夫)という、平和で幸福な市井の、妻君だったのだ。

この本の書き手はふたり。
かつて幸せだった赤木雅子さんという、夫に死なれた奥さんと、
華々しくも戦闘的な、
週刊誌のスクープいのちみたいな記者、相澤冬樹氏と。

権力をほしいままに行使する巨惡、総理大臣の犯罪と公務員の腐敗と裏切りを、
一介の国民と職業的書き手が、協力して国家を告発した共著なのである。
赤木雅子さんという日本人の自然を、そこなうことなく表出するために、
その日がやってくるまで、相澤さんは膨大な時間を待った。そして、
承諾を得た日からまた、徹底して長い時間をかけて文字化したのだった。

「私は真実を知りたい」のたぐいまれな長所は、
水と油みたいに溶け合うはずもない二人のおとなが、いっしょになって、
巨惡を追求するに至る、そのプロセスがていねいに記録されたことである。
これは職業人としての相澤記者のお人柄および能力によるところだろうけれど、

それはそうなのだけれど、
私は、赤木雅子さんという、いかにも市井にありそうな女性像に、
もうなんというか、とても惹かれた。
読みやすい、わかりやすい本である。読んでほしい。
雅子さんを知ってほしい。
この二人の努力を忘れないで、と思わずにはいられない。