2021年3月15日月曜日

本棚で見つけた詩


本棚から、偶然、手に触った小冊子を抜きだす・・・。
1997年の石川先生の詩集だった。
おぼえている人がいるかしら?
先生はお元気だろうか? 
痩身100歳まで、みたいな感じの方でしたが。
調布の地下の喫茶店をかしてもらって、先生の詩を脚色し、
朗読を劇団民藝の先輩にお願いしたっけ。
黒田卿子さんは、厳しくておっかない人だった。


詩集のあとがきの最初の1行にこうある。
いまはひょっとしたら「戦前」かもしれません。
38ページ
童話のようにながい一つの歌、それをここに置こう。



       一〇  一つの歌   石川逸子

     ここに
     1人の少年の篝火(かがりび)となった
     歌があります

     「埴生の宿」
     その歌の調べによって
     原爆孤児となった少年は 前へ進むことができました
  
     一九四五年夏
     先生に引率され
     広島県双三郡木村・大願寺に
     集団疎開していた 10歳の 島本幸昭
     国民学校四年生でした。

     伝わってきた広島全滅の知らせ
     さらに日本降伏のラジオ放送から
     十数日
     十歳の少年は ひたすら父母の迎えを待っていました
     だが 待てど待てど
     父 母 五つの妹
     その懐かしい顔は
     つい現れることはなかった・・・・・

      「大願寺の児らが手元に たらちね はらからより届きし
      文に、あるは狂喜し、あるは涙するも、それぞれが帰り                                       
      行く先、つまびらかになりぬ、されど、日夜待ちしが、一
      葉の文とて手になし得ぬ児、一人のみあり、ようやく憂色
      の濃さ増し、今はこれまでとて師、その児に申し渡しぬ。
      いつしか長月にも入りぬれば、彼岸花、そこかしこに燃え
      いたり」

     四カ月後 ようやく引き取りに来てくれた
     義理の叔母のところに 二年間
     六年生の秋には
     「戦災孤児五日市育成所」へ
     
     血を分けた叔父は戦死 わが子一人抱えて
     厳しい戦後を 生きていかねばならない叔母の
     やむない決断だったのです

     学校での最後の一日は
     一泊の芋掘り旅行
     夕食がすみ 賑やかに演芸会が始まる
     明日からの別れを誰にも告げていない
     十二歳の少年の耳に
     響いてきた 胸を衝く 少女たちの二重奏
 
     のちに「はにゅうの宿」と知った
     苦しい旅立ちへのはなむけに思え
     その旋律に 大きな安らぎと慰めを 与えられた

     それから いきなり投げ込まれた
     「戦災児五日市育成所」 の暮らし
     ひえきった少年の心に
     翌年春 暖かな水が注がれます
     通い出した申請中学校の音楽の時間に再び聞いた
     「はにゅうの宿」でした。

      「メロディーや詞を餓えたように貪り、感情の高ぶり押
      さえかねて、他人には判らない喜びに浸っているその時、
      先生から独唱する様に促された。彼女の弾くピアノ伴奏に
      合わせて一音一句を愛しみ陶酔して歌い終えると、一瞬、
      教室が静まりかえってしまい、怪訝な気持ちで先生の方を
      窺うと、彼女は自分の目頭を押さえてしばし無言の後、
      「とても幸せそうに歌っていたわ」と、いう言葉を聞いた
      私は、泪が自分にもこみ上げてくるのを覚えた」

    やがて 脱走 
    里子
    農家の作男として働き 自活しながらの進学
    ついに中学の音楽教師へ

    一つの歌が
    崩れかかる心を励まし
    生涯の篝火として
    少年を守りました

    その島本幸昭が
    両親と妹の終焉の地
    太田川をさかのぼった鈴張村・長覚寺を訪れ
    妹の最後の様子を知ったのは
    一九七四年九月
   
     「妹さんは、赤い模様のゆかたを来て、うつぶせになって
     亡くなっておられたそうです。
     5歳のかわいい女の子で、お父さん、お母さんは先に亡く
     なられました」

    本堂に置かれたオルガンの蓋を開け
    二十九歳の島本幸昭は 鎮魂の曲を奏でました。

    あどけない妹よ
    すがりつき甘えたい
    父母が先に息絶えて
    どんなに心細く 苦しい臨終を迎えたのか

    人類初の核兵器で
    焼け焦げた 父よ 母よ
    その手に 同じく焼け焦げた幼子を抱くこともかなわず
    どんな思いで
    あの天井 あの柱 あの御仏を眺めたのか
    あの川のせせらぎを聞いたのか

    清らかな オルガンの 調べよ
    天に昇り
    数知れぬ あどけない女の子たちの 
    苦悶の魂を静めよ


石川先生、あのころは、もしかしたらまた戦争になるのかもしれないと、
あなたの反戦の詩を、たびたび朗読したものでした。
1997年なんかというと・・・、
この国で原子炉が爆発するなんて誰がそんなことを
考えたでしょうか。

福島の3・11の日から10年。得体のしれないコロナ禍に振り回されて、
原子炉の爆発どころではないといわんばかりのふるさと日本です。