2021年4月30日金曜日

ノーテンキな一日

風が飛びまわって、お天気がよくて。
串のお団子みたいな雲がむこうに浮かんでいる。
朝から、洗濯、洗濯、また洗濯。
3冊の本を、読んではやめ、読んではやめ、
途中、思いつきで番茶を飲んだりした。なんだか不味い。
鯖ずしというのを買ってひとつ食べたけれど、
あこがれてたのに、不味い。
舌がオカシイのかも。

「不幸な国の幸福論」と「ムギと王様」とNHKのこだわり人物伝「城山三郎」を
かわるがわる読んじゃ置き読んじゃ置きして、はかどらず。
雀くん用のパンのところに、今日はトカゲがいる。
もうじーっとパンを観察しているように見えるけれど、レンガの上によじ登って
またパンを・・・と思うけれど、ちがうのかも。
だいたいトカゲの目ってどこにあるのよ?
安易だと思うけど、手持ちの?専門家にメール。

返事がきた。親切でしょう? 新井薫さんなのだ。
・トカゲの目は顔の両横ですが、頭頂部に第3、第4の目をもつものいるそうです。
 (機能的には今は退化しているよう)
・視線の先とは?(私がトカゲってどこ見てるのかときいた)
 視線の先は分からないのですが、視力は大変良いそうで、人間より優れているそうです。

つまりトカゲは顔の両横に目があるんだから、あっちもこっちも観るわけね。
目の前のパン屑は見てないし興味もないわけね。
視力というとすごくて、さぞ透徹っぽいマナザシなんでしょうね?
人間は前しか見られないし、私なんか白内障が進行中だから、
視力とか眼差しなんていうものはもう滅茶苦茶だ。

みっちゃんに、私は左の目のまぶたが腫れちゃってたぶん手術よと言ったら、
全然気がつかなかったと慰めてくれたけれど、
あっちも老眼こっちも老眼、私たちは同い年の天然五里霧中、
真実とは別のところをけっこうノンキにさまよっているだけなのだ。
まーいいわよ。トカゲとは寿命がちがうんだし。


2021年4月29日木曜日

短編『春になったら」「子どもの物語にあらず」

深夜、ふと棚で見つけたビデオをみた。むかしのものだ。
「春になったら」9分と「子どもの物語にあらず」29分。
第二次チェチェン戦争で難民になった子どもを映している、
見るのに40分もかからない小品・・・。

「春になったら」は18歳のむすこティムールの作品。
「子どもの物語にあらず」はお母さんのザーラ・イマーエヴァの制作である。
ふたりはアムネスティ・インターナショナルの招きで2003年の秋、来日。
小さい、ちいさい子どもの目がみた、チェチェン崩壊のありさまである。

それは私が団地の細田さんからきくお話にそっくりだった。
細田さんは88才の喜寿をむかえたばかり。
いまこそ、もう一度、細田さんの記憶を私たちの頭にうつしたいと思う。
私たちは、なぜこんなにみんなで戦争を忘れてしまうのだろう。

細田さんは類まれな老人である。
きのうは生垣のなかに生えてきたシュロをどうにかしようとし、
おとといは藤棚の藤の枝を花が生きやすいように刈り取っていた。
藤の花が夢に出てきて俺を呼ぶんだよなーと山形なまりで言うけれど。

私には、細田さんにどうしても話してほしいことがある。
友だちみんなに細田さんから伝えておいてほしい話がある。
早くそういう機会をつくりたいと焦りながら、
トシをとるばかりの自分がほんとっにまったくなさけない!



のんびり志向

地震がこわくて、二階の本棚をきっちり整理。
この本棚は壁いっぱいの作り付けだから倒れてはこないはず。
そこに隙間なく本を詰め込んだので、
どんな本だって飛び出して来られないんじゃないか、
と思うけれど、どんなものでしょう。
一応そうやって備えて、あとはまあ、なりゆきまかせで、のんびりしたい。

のんびりってむずかしい。
私としては空をみて風をさがして庭にやってくる雀を待ったり。
うちに来る雀はキャッチボールのミットにおさまるボールみたいに、
生垣(隣家の)めがけて吹っ飛んできて、毎回すぽっとそこに着地。
粋でカッコつけてる様子がどことなくチープサイドふう。
チープサイドはロンドンは下町の雀であって、ドリトル先生の秘書格だ。
うちの?雀はみんなして、急降下し垣根のミットにおさまるとスグ向きをかえる。
私はドリトル先生じゃないから会話ができなくてホント残念だ。
見ればみんな終始びくびく、大きな鳥も中くらいの鳥もいないと判ると、
なんだかもうやっとこさ、
私が蒔いておくパン屑を食べるのだ。毎日のことなのに。

ペテルブルグにいた雀たちは、ガリガリにやせちゃっていて、
私の手からパンくずを受け取って食べた。
前代未聞の雀だと思って、遥にきいたら、
食のチャンスがないから、ペテルブルグじゃ雀はえり好みしないのよと言った。
そうかぁ、考えてみればここがスターリングラードという名前だったとき、
ドイツ軍の包囲下で、飢餓と戦い壊滅を防ぎ大勢が死んで・・・だから今だって、
なんとなく雀なんかにかまっていられない気風なのかも。

そういえば、うちの庭にやってくる日本の雀さん達も、
ひところの雀よりうらぶれて見える。
なぜだろう、春なのに今じゃ食のチャンスが少ないのかしら。



2021年4月28日水曜日

手塚治虫の不屈

だんだん時間がたくさんになってきました。
みなさん、おげんきですか?
私もどうやら、巨大サンドイッチづくりに慣れて、
まあ1時間半もあれば、ブラックコーヒーといっしょに、
たとえそれが6時だろうが、8時だろうが、午後のなん時でもかん時でも、
にこにことテーブルに用意するようになりました。
これってボケ防止だっていうけど、しかしホントかなー。

それがいまいち信じられないので(こんなの単調ですもんね) 
いつ買ったのやら全然わからない本を読む。
手塚治虫著「ぼくのマンガ人生」1997年。
手塚さんの死は1989年2月9日。
この岩波新書は、最後の著書、晩年の手塚さんの講演をまとめたものである。
小学校時代の友人と、妹さんと、苦境を引き受けた友人葛西健三氏の談話が、
読者に「読み甲斐」というものを与えている。

生きるということ、仕事、家族、実にわかりやすい手塚治虫の思想。

思い出せば。
手塚治虫が死んだ時、私は桜上水の家でくらしていました。
この新書版が発行された時、この本は同居の継母に届けられて、
当時は読む人もいなかったのでした。

私が多摩市の今の家に引越したのは、忘れもしない2001年9月11日。
ニューヨークで世界貿易センタービルが崩壊した日でした。
引っ越し荷物をほどいていなくて、実況中継を観そこなった私ってマヌケの見本。

おととい、
手持ちのビデオで「12・12・12」というドキュメンタリーを観た。
2012年12月12日、マディソンスクエアーガーデンで決行された、
大津波に襲われたニューヨーク市民救済のための、
ポール・マッカートニー以下、英米ロックミュージシャン参加の大イベント。
アメリカ、2001年から11年後の不屈である。

いま見るとこの津波は、なんと福島を襲撃した津波にソックリであることか。
2010年福島の津波と原発の爆発。2012年のニューヨーク市の津波による崩壊。
あのころ、これこそが地球の同時多発的な運命だとは、
人間にむけて大海原(地球)が示した応答そのものだとは、私は思わなかった。

21世紀となると、超弩級の天才手塚治虫はもういないけれど、
こんどこそ私は、彼がいたらどう言ったか、ということではなく、
自分としてはどう対処すべきかを、襟を正して考えたいと思う者だ。

生きるということ、仕事、家族、それから自分なりの不屈。



2021年4月16日金曜日

多事複雑いい加減な

午前中は鶴三会だった。
それを忘れてしまって、電話がかかって、すごく恥ずかしい。
このところ、私の毎日は痛みと折り合いをつけること、
それから巨大サンドイッチ と晩ご飯の用意。
3階まで階段をのぼっては降りる物干し・・・洗濯は、
洗濯機がやってくれるからいいけれど。

鶴三会に参加させてもらうようになって、約10年がすぎた。
最初は老人会だからみんなで年をとるのねと思い、
それから時がたって、いつの頃だったか秋風の吹く日、
老人会は人に死なれるのがつらいよという嘆きを、耳にした。
それは本当にそうだった・・・。
私にしたって、転んだとたんに同居の息子の世話のみの日々となる。

77才。まー痛いのは治るからいいさ。

自分もそうだし、みんなの健忘症が他人事じゃなく心配なので、
会長の細田さんに、いつ東京を襲うかもしれない大地震について質問する。
細田さん88才、私は正直者ですぐ怒り出すこの人が、もう大好き。
以前、細田さんが徹底的に多摩市の地震について調べたと知っているから、
この際、みんなして細田さんにガミガミガミガミ言われたほうが安心だと思う。
「巨大地震シュミレーション」を昨日読んだのだ、原節子だけじゃなくて。

今日あらためてハッキリさせたこと。
もしも直下型の巨大地震に襲われたら私たちは避難場所に行かない。
激震が治まり次第、鶴牧3丁目の私たちは、管理組合事務所に集合する。
そこに、老人会的には、小林さんや細田さんがいる。
加賀谷さんがいて、彼は私たちの全74所帯の安全確認を行うリーダーである。
これはうれしい。すごく嬉しい。加賀谷さんって丈夫で沈着剛腕な人だから。

さてそこで自分は。
食料を1週間分確保。水を多めに確保し、風呂桶を空っぽにしないこと。
戸棚の倒壊防止。用具でシッカリ止める。
逃げ込める空間(部屋よね)をひとつ、ぜったいに用意する。
これだけじゃないけど、これだけはやっておけと。
1週間たてば、助けがきますからと元公団職員の小林さんが言ってた。

もっと、なんだか言われたけれど、私たちの老いたる脳髄はがたがた、
できない、まにあわない、あれはあるけどこれはないと不安でいっぱい。
比較的ひろい場所にすんでいるのに、空き部屋の確保ひとつもむずかしい。
・・・・私なんかあれこれきいて、たださえ弱っている頭が
鶴三会のあとガックリくたびれてしまい、地盤が固い多摩市から、
夕方になって深大寺の奥深くの銭湯に行ってしまいました。
調布市は、多摩川のむこうだし遠いのに。



2021年4月15日木曜日

「原節子伝説」

夕方になって、駅まで歩いた。
雨が降るはずなのに、ときどき降らないこまった一日。
上着を用心して羽織ると汗をかき、
歩きながら脱いでたたんで、リュックサックにしまった。
図書館に予約の本をもらいにいくと、
「原節子伝説」という写真集が、利用者が家に持って帰ってもよい本棚にある。
開いてみれば輝くような本なのに、なんで捨てちゃうんだろう。
つい、その大型本を持って帰ろうと手にとる。

滝沢修先生・・・。
劇団民藝で私が最初にもらった役はチェーホフの「かもめ」の小間使い、
舞台裏でも、滝沢修の付き人で小間使いなのであった。
どんなに一生懸命だったか、思い出すといまでも緊張して、
思い出だって、いまでも苦しくて懐かしい。
劇団で一番えらい「御大」といわれている人の御付き・・・。
滝沢先生のお世話専門の人がいて、その人も「かもめ」に配役されていたから、
彼女をさしおいてなんで私がと、四六時中、気兼ねでならなかった。

「かもめ」は日本中のの大都市をまわった。
劇団民藝最盛期の、オールスターキャストの大公演なのだった。

人をだいじにすることは、どんなに不器用でも、どこか楽しいものだ。
慣れない私を付き人に配したのは、嫌がらせだったという噂もあって、
もしかしたらそれは本当なのかもしれなかった。
しかし、入団そこそこの私にはそんなことを本当ですかと聞く相手もいない。
公演のあいだ、ずっと滝沢先生は孤高の落ち着いた大人物だったし、
下っ端中の下っ端の私はただもう一生懸命。
小間ネズミのように働いて、不細工に失敗ばかりして、先生のお世話をした。

そのうち私は、ときどき滝沢修先生に質問したりするようになった。
そのながい旅で、別格官幣大社(べっかくかんぺいたいしゃ)ということばを
私は覚えたが、たしかに先生はそういう立場の人なんだと思うけれど、
でも、いくらなんでも淋しそうに見える時がある。
私は私で超絶最低身分の女中なんだから、知りあいも話す人もいない。
・・・・・。
「あのう、センセイは、たくさん映画や舞台に出演なさったんですよね」
老優は鏡に向かってメーキャップの最中、
とっさのことに孫に答えるような慣れない調子だ。
「うん、そうね、いろいろ・・・出たね」
「きれいな人がいっぱいいた中で、一番きれいだった女優さんはどなたですか?」
しばらく、記憶をたどるように考える姿をながめて、私がじーっと待っていると、
「やっぱり・・・原節子さんが、綺麗だった。」
「ええっほんと?! そうなんですか?」
ピンときていない小間使い(私)をもう相手にしないで、
楽屋鏡に映った滝沢先生は、
「原さんは、本当に綺麗な人だったなあ」と、ゆっくり、もう一度繰り返した。

「原節子伝説」のページをひらいてみると、よくわかることだ。
1947年/松竹「安城家の舞踏会」キネマ旬報ベストワン。
主演者の一人が滝沢修。

1947年というと、私なんかただの5才だったもーん。


                                                                                                                

2021年4月13日火曜日

さびしい一日

今朝は、
眠って起きて、それからまた眠ってサンドイッチを作る時間を待った。
仕事に行く息子の「おそ出」の日。
遅出の日には、11時までに学校(じゃなくて会社)に到着し、
それから夜の8時まで働く、そのあいだなんにも食べない。
だから朝食にとんでもなく大きなサンドイッチを作るのである。
この、用意というのが、なかなか。
時間調整がごたごたとなんだか器用にできなくて。

食パン2枚、べつべつにバターを塗っておく。

ゆでたニンジンだとか、水にさらした玉ねぎ、クレソン、キュウリ、
ロメインレタスの葉っぱ、ゆでた菜の花、セロリにキャベツ、庭の三つ葉、
などなど、などを大皿にならべ、
ハムやベーコンは炒めておいて。

テキトーな時がくると、いつがテキトーなのか判りにくいんだけど、
食パンをトースターで適度なバタパンにする。
辛子マヨネーズを塗った2枚のパンそれぞれに、上記の野菜および肉をおき、
みんなが落っこちないように、ドッカーンとサンドイッチにしてしまう。
ニンジンとか薄く切ったセロリが、無理だといわんばかりに転がり落ちるけど、
大皿の上の戦争なので、落伍者にはけっきょくまたパンのあいだに入っていただく。

おいしいかどうか疑問だと思う毎日・・・、もうずっと息子の朝食はこれだ。
かあさん、パンを焼き過ぎないでくれる? と、今朝はめずらしく言われた。
あんまり詰め込んであるので、大口を開けなければならないわけだけど、
焼き過ぎるとパンの角で口が切れちゃうんだって。
えっ、あ、うん、そりゃそうよねー。だろうなーと。
その時は笑わなかったけど、あとでおかしくなってふきだしちゃった。

ひとりになると、ほぼ午後2時までかかって、
私は大皿の残りを、少しづつ1枚のパンの上にのせ、
けっこうおいしいじゃないのと、思いながら食べる。
バターは塗らない。マヨネーズもなし、緑茶なんかで・・・・、
もう1日中ぼやーっとしている。

とにかく、転んだあとがまだ痛いので、ぼんやりしていようと思う。
ぼんやりがいい、動かないで1日すごせば・・・。

ぼんやりは、慣れないせいかもしれないが、さびしい。
そうすると私としては、玄関の本棚から見知らぬ童話をぬきだしてきて、
今日はそれが、宮川ひろ作の「おとうさんのおんぶ」だったけれど、
この本っていつ家にきたのだろう?とフシギなのが不思議。
それでも懐かしく読んだ。
なつかしいのもあたりまえ、宮川さんの童話っていつもなつかしいのだ。
よくよく見たら、図書館が放出した古本だった。
せっかくもらって家に持ってきたのに、忘れちゃったのかなあ、
若いころの伊勢英子さんの上手で可愛い挿し絵の本・・・。

雨の日だった。降るような、降らないような、灰色の誰もいない日。


 

2021年4月11日日曜日

春です、お元気ですか

春です、みなさんお元気ですか?
きのう、近くのスーパーマーケットまで歩いたら、
一本の桜の樹のみ満開、どこもかしこも葉桜になってしまい、
花が残っている傍に立ってありがとうと寂しくて。
いま、私の2階の部屋のガラス越しに見える桜の樹は、
小さい樹ですけれど、ゆっくりとまだ満開です。
それでも枝のてっぺんだけは、もはや葉桜なのでした。

先日、だいじな友人が、遠くから訪ねてきてくださって、
お迎えにでたら、つまずいて、転んでしまいました。
もちろん転んだのはこの私です。

ものすごい転びかたをしたので、
数人の職人さんが大規模修繕の片づけをしていてびっくり仰天、
道具を置いて総立ち、といっても4,5人でしたが。
運がよかったのは、その人たちが壁になって、
お客さんにひっくり返った私がそんなによく見えなかったことかなー。

「来ないで、自分で立つから!」
駆け寄ろうとする壁(職人さんたち)に向かって命令!?

なんとかよろよろ自分で立って、
見たら右の手のひらが破けて血がにじみ出てる。
大丈夫ですか大丈夫なのかとお客さんが心配するから、
平気へいき大丈夫なめてれば治る、平気よなんでもないわよとか言いまして、
ずうっと、夕方まで傷をなめて、ヘイキだったんですけれど。

それはともかく、おかしなことにずーっと舐めてた手のひらの傷が、
一番最初になおった。
数日後、私って犬みたいだとおもってそういうと、
ヒトはみんんな「ああ、猫みたいなんだ」とあいづちをうつのですね。
犬みたいなのねと言ってるのにっ。
犬は飼われてると傷を病院でなおすようになるのかしら。
それともみんなは猫しか飼ったことが無いのかな。

夕方が過ぎて、「転倒骨折とかくの痛み持ち頭蓋骨打撲救急車医者嫌い」
のような民間人に電話で相談。
元気だけど痛い、痛いけど骨には関係ない、と思うと相談。
いくら私でも、
だんだんすごく痛くなってきたのだし。

ひねった筋肉(右よこっ腹胸骨)全般に、
湿布をあてタオルで氷を包んで幹部に当てる。
あとはもう自然のなりゆきにまかせて我慢してれば治るという・・・、
人間味もあり納得のゆく助言にひたすら従って、ずーっと寝返りもうてずに。

これじゃ、桜を見損なう春になってと、ひとりでぼんやり。
でもおかげさまで治ってきましたよ、ちゃんと。