2021年8月16日月曜日

物書きをやめる

私は離婚して、物書きであることをやめた。

大正育ちの職業婦人というのが、私たちの親世代だと思うけれど、
どっちを向いても、母親が独力で金持ちになると子どもが身をあやまる。
私はそういう親子をたくさん見ておとなになった。
演劇も文学も、その道で大成功なんかすると子どもが生き迷う。
どだい・・・この世代だと職業婦人ならば独身でいる人がとても多い。
優秀であればあるほど、
というよりは仕事が成功すればするほど、
うっかり本気になると母子でジゴクに落ちてしまう、そういう感じ。

私の4冊めの本は、「小説・となりのトトロ」なんだけど、
私はそれを最後の仕事にして、物書き業をから足をあらった。
小説家とか、文芸評論家とか、童話作家だとか、
なかば本気でなかば浮わついた、
子ども時代からの見果てぬユメなど捨てることにしたのだ。
私はひとりっ子で、親が6人もいたけれど、
自分の3人の子どもには、・・・私という女親ひとりしかいないわけだから。

こどもにはお金より時間を渡さなければいけないと、
それだけは経験上よく知っているような気がして、
それからは朗読の先生だとか、塾の国語の教師だとか、会社の社員教育だとか
いいのか悪いのかさっぱり判らない方角に転向した。
ふつうに働くのならバチはあたらないのではないかというヤマカンである。
子どもの学校の役員も仕事だと思ってとにかく(仕事みたいに)引き受けた。
新聞部のときできた友だちとはよかったことに一生のつきあいになったんだし、
いま思えばけっこうな時間だったけれど、
なにしろ、ボロ車を無理して15万円ぐらいで買って、
へこんだ場所はステッカーなんか貼り付けてかくし、目もくらむほど苦しんだ。
ジブリからの印税というものが入るまで、私は学校の月謝が払えず、
家賃を滞納し、学費を滞納し、
ーそれなのに月謝のかかる私立学校に子どもを入学させ、
ほかにそういうヒトがいるとも知らず(いたのに)、身も世もなかった。

それまでに書いた私の単行本は借金の支払いで即日消えてしまった。
即日消えるおかねに、なんの値打ちがあるだろう?
自分には物書きとしての才能がないとしか思えない。

だからもう「となりのトトロ」を小説に、という仕事をあたえられた時も、
宮崎駿さんのお情けにちがいないという受けとりかただった。
私が頼んだんじゃないわよ、知らないわよと思って、
やみくもに、おかねおかねと思って・・・。



物書きになりたかった

私の夢は、さいしょ、物書きになることだった。
そういう家に育ったから。
継母が有名な編集者で、父親は経済学者で一日中書斎にいる原稿書きなのだ。
家はどこからどこまでも、玄関も廊下も畳の部屋も、私の小さい子ども部屋にも
作りつけの本棚が天井まであった。

そのいわば両親の「不和の家」で、私は複雑な育ち方をした。
大勢の人が木造のこの家に出入りして、会社から疲れてもどる継母をイライラさせた。
子どもの目でみれば、父は人間が好き、継母は人間が嫌いなのだった。
父はむかし新聞記者で、母は反戦活動で投獄され拷問され沈黙のまま出獄した人である。
そういう事だと言う家だった。

私の家にはいつもお手伝いさんがいて、うちにいる父と一人っ子の私の世話をする。
このひと達が交代するたびに、亜子がわがままだからと私のせいになる。
そうかもしれないし、ちがうかもしれない。
まだ幼稚園や小学校にはいったばかりだと言われるままになってしまう。
ほんとうのことなどわからない。
意地悪で不機嫌な継母が帰宅すると家のなかの空気は一変する。
でも、じぶんもたしかにけってんだらけで、わがままなんだから、と、
幼ければそう思う。そう言われてもしょうがない、わがままだから。
気をつけても気をつけてもわるいことをしておこられる子どもなのだ。
こどもは、どんな子も、決めつけられたことに抵抗できない。
正直だし公平だからだ。

わたしは毎日、くりかえし童話を読んだ。
出版されるたび継母が手渡してくれる岩波少年文庫である。
学校に行けば行ったで、入学した和光学園にあった子どもの本をぜんぶ読む。
病的な現実逃避。
家でも学校でもかくれて泣いて、おもてむき陽気でニッコリしていた。

継母は、あなたなんかに判るはずもないという軽蔑をこめて、
せせらわらうようにして私に新しい岩波少年文庫を手渡した。
なぜだか今でもわからない。
私なら、そんなにその子を憎むなら、一生懸命つくったできたての童話を
こどもに手渡したりしないだろう。

いつの日にかその子をどこか、
自分の手の届かないものに育ててしまうようなそんな「物語」などは。

私は5年生の時、実母のいる場所に
とうとう逃げていった。ランドセルに着替えをつめて、
お手伝いさんが買い物に出たすきをねらって。
雨のふる冬の夕方で、父は講義かなにかの仕事があって不在だった。

母の家は高田馬場南口の麻雀クラブだった。
そこに私は居候したけど、本棚はおろか、書物めいたものはふたつしかなかった。
エロ本がひとつ。戦争中に母がつくった茶色に変色した家族アルバム。
アルバムには、12才?の私にかくされてきた過去が、そのまま貼られてあった。
若い父と母と、父方の大家族とテンパーという名の大きな美しい犬。
小児麻痺でしんでしまったおねえちゃんの牧子。
まるまるふとって、アクマみたいにわるい子だったという笑顔の私。
5才までの。

深夜、麻雀がおひらきになるまで、寝るところもない家だった。
小さい私は、お客さんのひざに座って毎晩、麻雀をみていた。
夜中までずーっと。


2021年8月15日日曜日

敗戦の日

 新聞の一面に俳句が掲載されている。
東京新聞の企画記事、平和の俳句に投稿された作、
71才の中林さんが詠んだものである。

裏口を開けて子を待つ敗戦忌

71才というと、もはや戦後の生まれなのに、こうもまざまざと
戦死というものを語る素養はどうして生まれたのだろうか。
中林さんが幼少期を過ごした長野県小川町に彼女の伯母さんは住んでいて、
そこに次男照次さんの遺影があったけれども、
・・・伯母さんの子を待つ思いは、その時はわからずにいた。
まだ子どもだったから。
彼女がその過去のできごとをきちんと知るようになったのは最近である。
親族が、親類たちがみんなでまとめた追想集を読んだのだ。

彼女の大きい従兄にあたる照次さんは1945年6月6日、
鹿児島県知覧の陸軍特攻基地から沖縄に出撃、そのまま21歳で戦死した。
追悼集に書かれていたのは、
戦争が終わってから何年ものあいだ伯母さんが夜も家の鍵をかけなかったことだ。
死んだ子が、万が一にも帰ってきたとき入ってこられるように。

中林さんは、伯母さんから戦争の話を聞いたことがない。
親族によって編まれた追悼集が、
息子の帰りを待ち続け、戻らないことを納得するまでの伯母さんの苦しみを
遠い年月の果てから教えたのである。
そのことが、どんなに苦しんだろうかという思いを、
今はもう71才になった人に届けた。

伯母さんはとうになくなってしまい、もうこの世にいない人だけれども。



2021年8月14日土曜日

あと5分で


あと5分で玄米ごはんが炊ける。
あと5分でそれを食べる気だ、
だんどりがおかしくて、残りものを食べていて日が暮れた。
玄米のできあがりを残して。

あと5分たったら私は買い物にいくつもりだけれど、
5分後には、きっと雨がジャーンッと降る。
たとえアメが降ってもヤリが降っても、
外を歩くつもりなんだけど、5000歩くのがギムだから。

セミが鳴く。
セミって雨がやんだから鳴くのかしら?
なるほどそうらしい。雨はやんいる。
青灰色の空がいまはもう壁みたいな色して雨を待っているのだ。

玄米が炊けて、あんまりガサゴソなデキなのにおどろいた。
私はガサゴソと空気をまわして、
お釜の中をかきまぜて思案なげくび。
いっそのことおむすびにして、一応しまったらどうかしら?

5000歩かずに日をくれさせちゃいけないという法律をどうする?
お天気の時しか鳴かないとしたら、
セミの寿命はとんでもなくみじかくなるんじゃないの?
この世のことがなんにもよくわからなくてまたも日がくれる・・・。


日が暮れるといえば、
月日は流れ 私は残る
という詩片。

・・・日も暮れよ、鐘は鳴れ、月日は流れ、私は残る、
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ、というあのアポリネールの有名な。

私みたいなよくわからない日の暮れ方をして、
それでも組み合わせた腕のしたを "疲れた無窮の時" が流れて、
なんだかこう、生まれてから100年たっても、
私がぶじに残っっちゃってたらどうする、
こんな世の中に?




2021年8月12日木曜日

バイブル

忙しいのと視力が極端におちたのとで、
最近の私はふたつの本のあいだを行ったり来たり。
ひとつは図書館本館が捨てた本。ひとつは建築事務所が100円で売った古本。
いや、どっちも建築事務所が100円で売った本なのかしら。

わからないのは、なぜこの本を、買った人が手元から離したかだ。
  鎌田慧の「ぼくが世の中に学んだこと」(筑摩書房1992年)
  ピースウォーク京都の「中村哲さん 講演録」
    平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告

鎌田さんは私が早稲田の学生だった時、文学部の露文科にいた人だ。
すれちがったことがあっただろうか。
私もロシア語をとっていたから・・・。
でもなんて、なんてよくわかる本の書き手になった人だろうか。

中村哲さんの記録はほかにもいろいろあるとおもうけれど、
このピースウォーク京都の講演録がいちばんすばらしいのでは、と考える。
そう思わせる力がこの本にはある。
講演も素晴らしいが、会場満杯の参加者も、生き生きと正直で、
老いも若きも中学生だって横にいたかったなと思わせる人たちなのがすばらしい。
2001年12月9日の話である。
京都ノートルダム女子大学ユニゾン会館だった。

行けるはずもない。
幼稚園の園長だったし、私って中村さんのことはよく知らなくて。




3時になると

早朝3時になると、バイクの音が聞こえる。
2度きこえるのはなぜだろう?
どちらかがうちのポストに新聞を投函。
私は起きて、窓をあけ、空気を家の中に入れる。
寝るにあたって、冷房を消すことにしているから、
空気が家のなかに入ってくると、涼しいとホッとする・・・。
夜明け前のことで鳴いているのはセミばかり。

いつもこういう時グレタ・トゥエンベリという北欧の少女の
全世界 に拡まった地球温暖化防止運動を思う。
彼女の主張は、徹底的で、
うちの団地の、細田さんのいうことと基本がまったくおなじだ。
私は細田さんを並外れた天才だと思うから、
地球の急激な温暖化が、やっぱりおそろしい。
それなのに、このところ冷房なしでは一日も過ごせない。
今年、冷房なしで苦しんでいる人はとんでもなく多いだろうと思いながら、
自分はどうしても、日中、冷房にたよる。

一方の私はこのごろとても単純な原始的生活。
自動車を運転しないから、日中、炎天下を歩いて買い物に行くのだ。
私の一日は、とにかくこの5000歩が基本であって。
帽子が嫌いだから、木陰、木陰、木陰と道伝いになんとか歩いて、、
多摩センターの駅までいく。
過疎、かそっていう字は、すぎたるまばら、って書くのか。
私たちが住むこの街は駅とスーパーマーケットと図書館に近寄らなければ、
過疎だから、マスクは一応持っているぞと手にもって、・・・てくてく。

多摩市はよいところだと思っている。
公園が多く、公園伝いにどこへも行ける老人の街である。
まあいまのところは。

セミと虫の合唱に、ヒグラシ、が一匹・・・
小太郎(うちにくる子スズメ)は鳥目(とりめ)だからまだこない。

冷房がこわれ、ガスレンジが故障し、冷蔵庫もいかれはじめて
公団住宅も、クーラーをつけにきた人の説明では、
あっちこっち、コンクリートの壁の内部で、ふくらみとへこみができているとか。

私はもうなんだか、必死の思いで、
ひとはイシガキ、ひとはシロ、というからと思っている。
細田さんがいるし、ちょっと遠い図書館の読書会にも入会させてもらった、
私って幼稚園でつくった朗読の会のひとたちと今もいっしょにいる、
初期の住民たちが創った住宅管理組合の原則が私たちをまもっているから、
とそう思いたくて、ふたつの老人会にずーっといて、

やれやれ、
私は、それを根拠に行動してみせるぞと思っているのだ。
私の民主主義って、それだから。




2021年8月11日水曜日

空気が熱気をはらんで

一日中、いろいろな用事をかたづける。
とにかく。
健が夜勤からもどり朝8時に朝食。11時まで仮眠。
急いで所沢へ。父親の入院していた先へ事務手続きに出かける。
立川周りのルートをとったのが失敗で2時間半もかかった。

空気が熱気をはらんで、おそろしいようだ。

冷房しないで走りたいがとてもそんなことはできない。
たぶん外は37度とか38度とか。
街路を柵につかまりながら、いまにも倒れそうな老人がよろよろと歩いている。
鼻に綿をつめていたけど、と健がいう。
眼がよく見えないので私にはそこまでわからない。
立川みたいな大都市に住んでいるなら、お金はあるのだろうか。
こんな身体で病気のおじいさんが、炎天下買い物に出るなんて、
うすべったいスーパーの買い物袋、ポリの・・・。
独り暮らしなんだろうか。
それとも病気のお婆さんをかかえているんだろうか。
こんな風景が、ふつうのことになったなんて。

がっかりするほどクルマではしって、
やっと食事をする。
自然食のバイキング、一時間コース。
健お気に入りのレストランで、ランチだと安い。
病院にいく、というとここに寄る。
私が小食のきわみなので、健が1時間以内でものすごくたくさん食べる。
料金をとり返そうとして。
ろくに眠っていないのにこんなにお腹いっぱい詰め込むなんて、
あとの運転がまた長いからと思って、私は自動車事故が心配。

病院。
ここのケースワーカーと看護士さんにお世話になったけれど、
院内の空気はますます暗くまこと医療崩壊の気配。
今朝電話を入れた? 約束? 
はあ、そうでした?
・・・感じが悪いと言うのじゃない、連絡されてもなんにもしない、
できないのだ。できなくてあたりまえなぐらいひとの手が足りないのだろう。
ていねいで、そしてきっちり投げやり。
かんたんな事務上の約束も、はじめから果たす気がないというかんじ。

用事がおわって、帰宅。
途中コンビニで、書類をだして。入金。
それから、ながい、ながい、帰宅の・・・。
あやうい時間、最後にうどんやさんでばんごはん。
ふたりで1000円かからない。
もうくたびれちゃって、
うちに帰ると9時だったし、私は歯を磨いて寝てしまった。