2021年8月16日月曜日

物書きになりたかった

私の夢は、さいしょ、物書きになることだった。
そういう家に育ったから。
継母が有名な編集者で、父親は経済学者で一日中書斎にいる原稿書きなのだ。
家はどこからどこまでも、玄関も廊下も畳の部屋も、私の小さい子ども部屋にも
作りつけの本棚が天井まであった。

そのいわば両親の「不和の家」で、私は複雑な育ち方をした。
大勢の人が木造のこの家に出入りして、会社から疲れてもどる継母をイライラさせた。
子どもの目でみれば、父は人間が好き、継母は人間が嫌いなのだった。
父はむかし新聞記者で、母は反戦活動で投獄され拷問され沈黙のまま出獄した人である。
そういう事だと言う家だった。

私の家にはいつもお手伝いさんがいて、うちにいる父と一人っ子の私の世話をする。
このひと達が交代するたびに、亜子がわがままだからと私のせいになる。
そうかもしれないし、ちがうかもしれない。
まだ幼稚園や小学校にはいったばかりだと言われるままになってしまう。
ほんとうのことなどわからない。
意地悪で不機嫌な継母が帰宅すると家のなかの空気は一変する。
でも、じぶんもたしかにけってんだらけで、わがままなんだから、と、
幼ければそう思う。そう言われてもしょうがない、わがままだから。
気をつけても気をつけてもわるいことをしておこられる子どもなのだ。
こどもは、どんな子も、決めつけられたことに抵抗できない。
正直だし公平だからだ。

わたしは毎日、くりかえし童話を読んだ。
出版されるたび継母が手渡してくれる岩波少年文庫である。
学校に行けば行ったで、入学した和光学園にあった子どもの本をぜんぶ読む。
病的な現実逃避。
家でも学校でもかくれて泣いて、おもてむき陽気でニッコリしていた。

継母は、あなたなんかに判るはずもないという軽蔑をこめて、
せせらわらうようにして私に新しい岩波少年文庫を手渡した。
なぜだか今でもわからない。
私なら、そんなにその子を憎むなら、一生懸命つくったできたての童話を
こどもに手渡したりしないだろう。

いつの日にかその子をどこか、
自分の手の届かないものに育ててしまうようなそんな「物語」などは。

私は5年生の時、実母のいる場所に
とうとう逃げていった。ランドセルに着替えをつめて、
お手伝いさんが買い物に出たすきをねらって。
雨のふる冬の夕方で、父は講義かなにかの仕事があって不在だった。

母の家は高田馬場南口の麻雀クラブだった。
そこに私は居候したけど、本棚はおろか、書物めいたものはふたつしかなかった。
エロ本がひとつ。戦争中に母がつくった茶色に変色した家族アルバム。
アルバムには、12才?の私にかくされてきた過去が、そのまま貼られてあった。
若い父と母と、父方の大家族とテンパーという名の大きな美しい犬。
小児麻痺でしんでしまったおねえちゃんの牧子。
まるまるふとって、アクマみたいにわるい子だったという笑顔の私。
5才までの。

深夜、麻雀がおひらきになるまで、寝るところもない家だった。
小さい私は、お客さんのひざに座って毎晩、麻雀をみていた。
夜中までずーっと。