2020年5月6日水曜日

ゆっくり考える


ワーッとあっちに行き、ワーッとこっちに戻ってくる。

自分が本当はなにをどう考えるべきなのか、それが、ぜんぜん判らない。
コロナだコロナだとなってから、これにはこまった。
いいトシをして、と、私は、なんだか自分のそこにひっかかる。
大人って、そういうもんじゃないだろう、と自分に言う。
私には親が通算6人いたと勘定しているが、そこに祖母を加えて、
たぶん7人の冥界にいるひとたちが、なんとなくそういう信号を私におくって
いるにちがいないと思う。むかし日本はそういう国だったのだ。
 
百家争鳴という熟語は、1956年ごろ、革命中国のスローガンだった。
それが中国でどうイメージを変えたんだかわからないけど、
私自身は、心のなかで、みんながそれぞれに考えた意見を持てることが、
一番よい型の平和なんじゃないの、と思っている。
民主主義の基本は百家争鳴にあると思う。
だからコロナについても、原則として自分なりの見解を持ちたい。
自分の立場から、政治家のいうことやニュースというものを判断してみたい。
鵜呑みはダメよ、という考えである。

ところが、コロナともなると「死ぬぞ、死ぬぞ死ぬぞ」の大合唱なんだから、
しばらくはもう怖くって右往左往するばかりだ。
考えてみれば、私だってみんなだって、いつかは死ぬのに。

コロナのことだって、自然科学のことだって、
頭がすごくよい人は、あっという間に意見をもてる。
ふつうはどうだろうか。
そうはいかない。
私たちの考えは、ゆっくりとしか、やってこない。
ゆっくりって。
具体的にわかりやすくいうと、こんな風にゆっくりだ。

「自粛警察」という言葉が、世上横行しはじめる。
だれかが夜中に張り紙をしたと新聞で読んだ。
「店をしめろ」とか。「やめないと殺す」とか。
そうすると、反射的にあわてふためいてしまう。
もう自分が牢屋に入って看守に見張られているような。
牢屋はわが国、看守は世間一般、ということになるのだ。
ただのニュースなのに、無責任な伝聞なのに。
情けないことだ。

こういう伝聞にすぐただ乗りするって、子どもの親としては最低である。
私は3人の子の親だったので、かならず、そこに行きつく。
脅しに屈してどうする、とまず考えちゃう。親をやらせてもらったからだ。
私は子どもたちに、「脅迫されたらすぐ尻尾を巻いて逃げる人になってね」
とは言わなかった。
それは日本が国家として幸福だった時代の、幸運な親だったからだ。
自分はとんでもなく不幸だと思っていたが、生意気だった。

私は物悲しく、ゆっくり考える。
ニュースをきいてから、何日も何日もかかるけど、自分なりの結論を
作ろうとする。長いこと働いてきた大人じゃないの、と自分に言う。

張り紙を、夜中に起きだして、目的の家に貼りに行く自分を想像する。
目当ての店舗まで歩く私。シャッターにそれを手持ちの接着剤で貼る私。
誰かが通るかもしれないと思ってる私。風に微かな音を立てる夜中のシャッター。
まざまざと思い浮かべる。想像力というやつで。
才能がなくてやめたけど、俳優だったから、
脅し目的で、夜間、外に出て行くニンゲンになってみようとする。

そうやってゆっくり考えてみるとすぐわかる。

怖くって自分じゃそんなことは出来ないのだ。夢にみることだって、こわい。
たいがいの人はそんな夢を見ようものなら「悪夢」と言うだろう。
たぶん、こういう嫌がらせをやるって、特殊な少数者で、
よくわからないけど、それがお金になる人だろうか。
ふつう、人はそんなことはしない、度胸がないからできない。
特殊な少数者と、普通人と。どっちが多いか。
と、そこまで考えると、どうやら人心地がついて、
ワーッとあっちに行き、ワーッとこっちに戻ってくるみたいな、
幼児性から、なんとか抜けだせる。
素朴でも、自分なりの実感に基づいた、畑のニンジンとかトマトのように、
自然で、あるべき意見が持てる。
それが親になったニンゲンの最低の義務だし権利だと思うのですが。