2012年7月20日金曜日

確実な春のはじまり


新鮮な発見。

官邸デモに参加した、あるいは官邸デモを見に行った人たちが、
巨大ともいえる人々の群れが金曜日の仕事帰りに集まってきていると言う。
その多くが個々人で参加しているふうに見えると言う。
障害のある娘とふたり、デモの様子を見たくて国会議事堂駅で降りた友人は、
知らない人が自分の代わりに飲料水を買いに行ってくれたと驚いている。
行進なんかできないほど抗議デモの人数は多く、知らない人同士の親切が気軽に行われ、
ふつうの個人的な人たちだから、ルールを守り、ゴミは持ち帰っている、と。

7月16日、17万人が集まったという代々木公園でも雰囲気は、ほぼ同じだった。

4、5年ほど前、フィンランドに私は出かけた。
個人的な見学の旅で、ヘルシンキに10日間滞在。
・・・むかし日本もこういう国だったと、行ってみて思い出すことがたくさんあった。
おだやかで、スジが通っていて、カフェやレストランで話し合う姿が落ち着いていて。
それは懐かしくて、好ましい光景だった。
ああ、日本がこうだった時代を私は知っている、と少なからぬ感慨があった。

ノスタルジー。

むかしと言っても、1960年安保前後のころの話である。
貧しくてもあのころ私たちの国は学力世界一のフィンランドによく似ていたのだ。
たとえば、
フィンランドのバスは、時間内であれば、同じチケットで何回も乗りなおしができる。
私はかつての日本の地下鉄を思った。
学校が青山にあって高校へは定期で通ったんだけれど、
地下鉄は定期さえ買えばどこまで乗ってもよかった、フィンランドみたいに!
銀座に行くのも、学校がおわって国会議事堂へデモに行くのも、学校の定期で行ける。
こういう市民本位のべんりさが、日本が世界に冠たる金持ちになるにつれ、
制限されていったのがヘンである。

忘れていたけど、あの時代は案外イロイロよかったのだろう。
そんなふうな生活や気持ちを私たちは再びとりもどせるだろうか?

いま巨大なデモのありようを聞いたり見たりすると、
ここから春が少しは始まるのかもしれない、と信じる気持ちが起こってくる。
巨大な抗議デモのなかには、
社会的な意見をもつ人も多くいて、不信の壁をこえて見知らぬ人に優しい人も多い。
そこへ出かけて行って、たくさんの人々を見て、自分を自分なりに変えるのだ。
自分が変わらなければ、家庭はかわらず、学校もかわらず、
イジメの構造も変わりはしないのだ。
社会は自分からはじまるという真理に、たぶんいま私たちは接近し始めているのだ。