2015年2月25日水曜日

家出


11才の時、私は家出した。
殺された川崎の子よりふたつ小さかった。
なん日も前から、ランドセルと小さな柳細工のカバンに衣類を詰めて、、
お手伝いさんが買い物に出たスキに家から逃げたのである。
相談できる人はいなかった。
3才のとき私を捨てた母のところへ逃げたのだ。
継母の精神的虐待に耐えかねて。

母は私をどう思うのだろう?
母の家に置いてもらえるだろうか?
他人も同様の母親だ、そんなことはひとつもわからなかった。
わかっていたのは母の家が新宿から二つ目の駅にあるということだけだ。
切符を買って、プラットホームに立って、見つかるかもしれないと怯えた。
電車に乗ってからは、流れていく夜の景色に目をあてて、
追い返されるだろうと、そればかり思った。その時は死ぬのだ。
なにしろ私は正札つきの「わるい子ども」だから。

当然、帰れと私は言われた。
母は困り果てていた。
ちいさな二間しかない借家で麻雀クラブをやって、
仕事が終わらなければ明け方まで寝ることもできない暮らし。
1954年だった。

私は石のように黙って、やっと「どうしても帰らない」と言った。
恐怖でほかの言葉がでてこない。
あとで聞けば、母はあの日私が迷惑をかけたお手伝いさんから、
あんまり可哀そうです引き取ってあげたら という手紙を受けとっていたという。
そんなことはぜんぜん知らない。
子どもにわかっているのは自分が「わるい子ども」だということだけなのである。
産んだ母親でさえ自分を拒否するということだけなのだ。

父が継母と一緒にその晩やってきて、それから他人が説得にきて、叔父がきて。
誰がなんと言おうと、私は母の安っぽい麻雀屋にしがみついて帰らなかった。
一年を、とうとう貧しい母の家で、じゃまにされながら過ごした。
母の家にいるあいだ、父の家にいるよりもずっと、ずっとひどい目にあったと思う。
貧乏だからと、母に言われて自分の養育費を取りに行かされもした。
自分が裏切って逃げ出した家に。

いまも逃げて行ったことに後悔はない。
11才で、自分の運命を父と継母と生母から、少し取りもどせたと思うから。 
ただ辱められて、軽蔑されて、締め上げられて生きるよりは、たとえなんでも。

父親の家に連れ戻されてからも、私は逃げた。
一度など、もう高校生になっていたが、本格的に行方をくらまそうとした。
お金がなくなって逃避行の途中、静岡県の伯父の家に寄って泊めてもらった。
夕方になると伯父は通りに面した手すりに、紙の月をぶら下げる。
浜松からバイクでもどる若い教師が、ボール紙の黄色い月を見上げて、
用事があるんだなと 寄ってくれるのである。
そんな伯父・・・。 継母の姉の養子だったお婿さん。

私は5年生で家から逃げた。あのころから政府は今の自民党、
自由党だか民主党だか知らないが、日本はその政権下にあった。
それでもあのころは、
恐怖に凍りついた子どもが逃げる場所は、今よりはまだあったのだ。