2015年2月11日水曜日

雑記/セチュアンの善人


マキシム・ゴーリキーの文章に、こうある。
「人生というものは、きわめて複雑にできあがったものであって、
憎悪することのできないものは本当に愛することもできない。
人間を損なうべき魂の分離、憎悪を通して愛せざるを得ないということは、
人生を破壊へと導くのである。」

1940年のベルトルト・ブレヒト作「セチュアンの善人」は、
「ゴーリキーの文章を劇にすればこうなる」という模範解答ではないか。
ヒロインはまさにシェン・テとシュイ・タに人格分離。片方は施し片方は搾取 し、
まさしく憎悪を通して愛せざるを得なかったセチュアンの善人が破滅に至るという図式。

さて冒頭のゴーリキーによる文章はロシア革命の父レーニンについての記述で、
題名もたしか「ヴィ・イ ・レーニン」だった。
大作家が、ソビエト政権誕生後まもなくレーニンに会い、その人物像を描く。
時あたかも世界史上初めての社会主義革命驀進の真っ最中。
戦争と平和、労働問題、他国の干渉、殺人、犠牲、官僚主義、権力、制度改革、
それらが人間レーニンに及ぼす複雑な影響、そして不可避的魂の分離に、
作家ゴーリキーがこだわったのは当然であろう。

心理的側面からのみ人間レーニンの性格を描写するなんて不可能というものだ。
(ゴーリキーはのちにレーニンと喧嘩して、イタリアに移住)
 
世界大戦が終わり、20世紀後半にもなると、
社会主義大国と資本主義大国の「冷戦」時代。

資本主義先進国では、
 「人格分離」は、20世紀後半に「多重人格」と名を変えてゆく。

資本主義の爛熟期をむかえたアメリカでは、カウンセリングが商業化。
「人格」が、
社会科学的分析を外して、心理学の迷路から説明される傾向。
権力者にとっては反逆を招かず、都合のよい方法である。

1977年強盗殺人罪で逮捕された実在のアメリカ人ビリー・ミリガンを主人公にした
ダニエル・キースの「24人のビリー・ミリガン」の大ヒットによって、
日本でも、多重人格を扱うのが文学的流行に。たとえば辻 仁成の秀作「ピアニシモ」。
日本って、たてまえと本音のちがいがお家芸だし、土壌にピッタリかも。
果てしない内面探索の旅。



劇団PASSKEY による「セチュアンの善人」の失敗は、
戦後、西独ではなく東独で死去したという劇作家ブレヒト(1898-1954)の、
よって立つ思想を演出家が根こそぎ無視したことにあるのではないか。

ロシア革命はその当初人類の壮大な夢の始まりであり実現だった、
その具体的事情を、私たち日本人はろくに知らない。
社会主義を実現させたロシア人がリアルタイムで見たユメとはどんなものだったろう?
たとえば中国を考える時、私は纏足から女の子が解放されるには、
あの長征を伴う「革命」しかなかったのかもしれないと想像したりするのだが。

いま
私たちは、毎朝とどく新聞で90%の富を1%の人間が占有していると知る。
この経済格差がやがて貧しい人のみか国家を破滅させるだろうと、
来日したフランスの経済学者トマ・ピケティー氏が言っている。
著書「21世紀の資本」英訳本はアメリカで大ヒット、各国でも大流行中。

富裕層1%。 のこり99%を占める群衆。
その99%の中に組み込まれた私たちは、いったいどんな存在なのだろうか。
舞台上の劇化された群衆のなかに、今を生きる自分という人間がいるとしたら?

人間は「群衆」という名でかたづけられないものだ。
金曜日のデモでぞろぞろ歩いていたって、はなればなれの心と心じゃないの、けっきょく。
「強欲」も「鈍感」も「わがまま」も「色気」も「食い気」も、それだけでは人間にならない。
空虚な概念、上っ面の看板でしかない。
ピエロだって仮面の下にそのピエロ固有の苦しさを持っているはずである。

「人間、そいつは素晴らしい!」 とゴーリキーは声高らかに主張したが、
そういうものとして、個々人の「全面発達の可能性」を信じることが、
20世紀の前半には人類の見果てぬユメであり、革命の課題 だったのではないか。

ロシア革命が当初、ゴーリキーの興味と関心そして協力まで勝ち得たのは、
人間はだれもが人間であるという人間観を、革命政権が支持していたからだろう。
ー第1回ソビエト作家大会の議長はゴーリキーだったはずー
東ドイツの詩人ブレヒトが群集劇をつくる時だって、
当然その思想こそがつねに創作の根底にあったはずである。
20世紀とはそういう世紀だったのだ。


ロシア革命が官僚主義を克服できず、
それとも作家と政治家はそもそもの視点がちがうからか、
ゴーリキーとレーニンは袂を分かった。
 

劇団PASSKEYの「セチュアンの善人」は、登場人物の整理のしかたが古めかしく、
いっそ歌舞伎や文楽に似て脇役が、大物活躍中、死に体にちかい処理をされてしまう。
20世紀の洗礼を受けたあとでは、この、脇役処理はなんだかどこか観客に馴染まない。
みんなちがってみんないい、の時代には。
20世紀は、パソコンでいう「削除」ができない文化的痕跡をやっぱり私たちに残した。
革命政権が崩壊しても、人類の経験知は、人類の体内に残る。
なんとなくおかしいと私たちは感じる。

ヒロインのシェン・テだけが人間的であるという設定や省略には無理があるのだ。
そういう演出の乱暴は舞台に荒唐無稽をよぶ。
実際、上演された作品には荒唐無稽のうらみがあって、
終演直後、「くたびれたっ」と、どこかのおじさんが言ったのは、
エネルギーには感心したけど、どうもスッキリ胸に落ちないという感想の表明 だろう。

なぜシェン・テは、「身勝手」がパイロットの制服を着ただけのバカ男に、惹かれるのか?

ヒロインの恋の理由は作劇上だいじだろうに、さっぱり見当がつかない。わからない。
「身勝手」がパイロットの制服を着たって、制服だけで女を騙せるもんじゃないでしょ。
そこを分析して説明するのが面倒ということなら、タイガースのジュリー並みの、
頽廃的で凄みのあるカリスマ的美男に登場してもらう しかないだろう。

こんなに群衆のそれぞれにいまいち感情移入できなくていいのだろうか。
語られていることばに嘘はないのに。
俳優ひとりひとりの個体に人間らしい味わいが見えない。

あれほど傍若無人、やりたい放題、野性そのものみたいだった彼らが、
なんの理由で、逃げもせず隠れもせずシュイ・タの奴隷工場にやすやすと吸収されたのか、
その説明がどうにもつかない。
いまや舞台にいる「群衆」は現代を生きる若者そのもの、だからこその公演だろうが、
なんの罠にはまって、彼ら群衆がシュイ・タの奴隷工場で働かされたのか。
それが見ているほうとしてはぜひ知りたい。

でも、これこれこうなったと、騒々しいばっかりのセリフで説明を受けるだけ。


それではやっぱり、観客はいつの間にか飽きてしまうのである。