2020年3月27日金曜日

次女気質(じじょかたぎ)


ヒデコちゃんは次女だった。4人の子どもの。
長女、長男、ヒデコちゃん、末っ子の3女。
敗戦直後で食糧難の時代なのに、軍人だった父親は公職追放。
ヒデコちゃん3才。私よりすこし年上である。
「もし誰かが貰われっ子になるとすればさ、きっと自分だろうと思ってたわよ。
だってね、姉さんは初めての子どもだからだいじにされたでしょ。
兄さんは待望の長男なわけよね。末っ子はもう、なんていったって可愛いから。
貰われていくとしたら私だろうなって」
家族みんなが大人になってからの笑い話である。

私はこの話の「長男」の嫁だ。ヒデコちゃんより年下の兄嫁。

私も次女である。姉が7才で死んだから一人っ子になったけれど。
小児麻痺で寝たきりの姉が死んでまもなく、母は私を置いて出ていった。
ずっとあとになって、再会した母から、どんなにきれいで優しい子どもだったか、
私がどんなに姉とちがっていたか、たびたび聞くことになった。
マキコちゃんとツギコちゃんが入れ替わればよかったのに、と母の従妹なんか
そう言ったという。これだって笑い話できいたのだ。

次女気質というものは、こういう土壌のうえに形成される。
打たれ強い性質。まわりに注意しながらひとりで行う自己形成。
環境にさからわないがあんがい強情といわれたりする。
でも感じがよい。にこにこしている。
だってうっかりするとどっかに貰われちゃうわけだし。

次女気質だと、こういう一応の外づらに隠れて、欠落している資質は見えにくい。
我儘じゃない代わりに自己主張ができにくい、というより主張は育たない。

「佐高信の昭和史」(角川文庫)のなかに、こんな詩が引用されている。

   「祝婚歌」      長田弘

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい


次女にこういう忠告が必要だろうか? けっこう最初からこうなのに?
次女って、用心ぶかいし、自分にだけきびしくて潔癖だ。
・・・佐高信推薦・のような人に、ついつい頼まれないのになってしまう。

さて続いて佐高さんは、ソローの名著「森の生活」からも詩を引用する。
「組織においてどうあるべきか。この一語に尽きるとおもいます」とある。


足並みの合わぬ人をとがめるな
彼はあなたが聞いているのとは別の
もっと見事なリズムの太鼓に
足並みを合わせているのかもしれないのだ


組織者としてはこういうことがとてもだいじである。
たぶん、演説するな、聴く耳をもて、ということだろう。
集団の中には、さまざまな優れものが、必ずいるからと。
しかし、
家族とか個人のトラブルとなると、この指摘はどんなものだろう。
男じゃなく、長男じゃなく、大学出の優れもんじゃなかったとしたら?
佐高さんとか、長田さんとか、ソローさんみたいじゃなくて。

健康で献身的な、ただの家族のお母さんだったとしたら?
その人が、例えば高齢になり、病気になり、長年の無理がたたって、
だれの補いもできなくなった時。身体がつらくて自由に働けなくなった場合。
ヒトの都合にふりまわされず、権利として、自分のことばで自分の身を守れたら、
日本人が、これらの詩の真逆を、落ち着いてやってのけられたら、
そうしたら、やっと日本も民主主義なんだと、私は考えるのですが。

・・・そうは言っても次女気質がジャマをして、これがなかなかの難事業。
もっとみごとなリズムの太鼓はいつもほかの人のために鳴るんだし。

こまったこまったで日が暮れる。
でも私は、自分の主張がどんなに不細工でも、
不細工なんか気にしないでがんばりたい。
笑う門には幸せやら面白いことやらが、かならずまっているはずなのだ。
それを確信している。

コロナで大騒動だけど、個人的な意見がひとつも言えなければ、国難の解決なんか
あるはずもないじゃないの。
10歩だって100歩だって、はじめの1歩があってのものだ。
はじめの一歩は、ヒトの顔いろをうかがうことじゃない。