2020年3月15日日曜日

女子学生


むかしむかし、
ニコライ・アレクサンドル・ヤロシェンコの絵葉書を上野の美術館で2枚買った。
「女子学生」という題名の絵だった。
ロシア文学のどこかの影にいそうな、アンナ・カレーニナとか、戦争と平和の
ナターシャとかのヒロインとは少しちがう、
いかにも素朴で田舎の良家の子女といった風情のおさげ髪の少女の肖像である。
チェーホフの短編に表れては消える、つかの間の女の子の原型、
都会からきた学生なんかにからかわれて置き去りにされる、無防備な美質。
それがいかにも懐かしくて、もう昔のようにロシア文学を読むということもなかった
けれど、あまりにも生き生きとした絵だったので、思わず絵葉書をさがして、
買ったのだった。
  
私はその絵葉書を一枚は朗読の会にくるKさんに渡し、一枚は自分の家の掲示板に
画鋲で止めた。そのころは、そんなに彼女と親しいわけでもなかった。私は幼稚園で
朗読を母親たちに教えて、それから自宅でも教えるようになった、その両方に彼女は
いたけれど、なんでそうなるのかあんまり判ってもいなかった。
生徒は現れては消えたし、私は今もそうだが朗読者の背後の生活に頓着しない型の、
ただ目の前にいるその人だけに興味をもつ「せんせい」だった。

美術館から帰ると、私はKさんに絵葉書を渡した。
その肖像画こそが彼女の本質そのものだと、美術館の暗い照明の下で、
なぜともなく直観したからだった、その印象はわかり易くしかも強烈だった。
いいわね、と彼女に言ったのをよく覚えている。
「忘れちゃだめよ。あなたはこれよ。こういう人なのよ、忘れちゃだめよ」
賢さの内在、内気、はにかみ、素朴、役に立ちそうな両手。確固とした可能性。
kさんはいつものようにどぎまぎして、逃げるように内気な笑顔だった。
・・・笑顔には、おみやげを教師から受けとる恐縮しか、みえない。
絵葉書一枚なのに。Kさんというのはいつも、そんなふうな人だった。

私はそれからずっと、ヤロシェンコの絵葉書を掲示板に貼っておいたけれど、
それはKさんに「おまえはこれだぞ、私はこう思っているぞ」と、
いわばヤロシェンコ越しに言いたいためだった。
絵画とは、こういう時のためにこそあると、時々、思う。
教師が口に出して言えば、それは、教師の個性にいろどられて貧相な結果しか
生みださない。でも絵画は、絵というものは無言なのだから、
そこからなにを受け取るかだって無限大、
実際の自己形成は自由の名において自分がするのだと、そういう余地が残される。
それこそが教育学の根本にあるべきだと、
私は私で学校時代に、自分の「せんせい」たちから習ったわけである。