2014年9月18日木曜日

「君たちは忘れない」を書いたころ



夏は、暑くて、あんまり暑くてくたびれた。
でも、いい夏だった。そう思いたい。

30年もむかしに書いた本をたよりに、東北から私を訪ねて下さった方があって。
その方に言われて、自分の書いたものを読み返し、
30年まえの人間関係をもう一度掘り起こそうと、伝手をたどっては人を訪ねはじめる。
参考資料も読む。出版社に行くものだから、興味深い本も見つける。
いい夏である。

「 君たちは忘れない」は、長いこと書棚の奥においたきりの本で。

この本を自分が書いた時を思い出すと、滑稽だ。
30代のおわりのくそ貧乏、家賃を11か月も払えなかった時だ。
子どもはふたり。勉と遥と。 魔物みたいな兄妹で少しもじっとしていない。
私は怒ってばかりいた。勉も遥も保育園児で、私たちはモルタルの木造アパートにいた。
「なるべくこの人のそばにいないほうがいいとおもってた」と勉が言う。
ははは、わるかったよ。
いったいどこで私は原稿を書いたのか?
あんまり貧乏なので頭にきて「だまれ第二柏葉荘」とよび、手紙を書くときも
住所の横にそう殴り書きしていた、あの木造アパートの六畳の坐り机でか?
あのころはファミレスに逃げていくお金もなかった。

長くつ下のピッピはごたごた荘に住んでいたなーと思う。
 ピッピの家には白い馬がいて、たしかピッピは馬と一緒に住んでいたっけ?
それじゃごたごただろうけど、私のごたごたよりピッピの方がいいじゃないの。

とにかく、書けもしないのに引き受けて、3年もかかって歯をくいしばりながら書いた本だ。
書き終わって読み返そうにも、長い間よく読めなかった、自分が書いた本なのに。
くたびれたし、また仕事を探して稼がなくちゃならないし、子どもが3人になって、
もう無理だった、マージメな本を読むなんてこと。
私が考えて書いた箇所はいいが、引用文がいけない。
これは笑える話だ。事実はまったくもって小説より奇なり。
苦労して資料を読んで四苦八苦して引用し、無事活字になったらもう読めない!?
原稿用紙に鉛筆で書いた時代である。

こういうことは大編集者の橋本 進氏が、私にはついていたという事情による。
私は理研の小保方さんが気の毒でならない。
責任者たちの無責任に信じられない思いがする。本当に可哀そうだ。
30年前の私は、 論文を書きあげて、「よろしいでしょう」と言われれば、
そこで責任は橋本先生に移って、もうあとの始末は考えないでよかった。
よかったと思うだけ。お金がないし、余裕もないし。
不思議なことに、「よろしくない」と言われたことだって多々あったはずだが、
そういう記憶は残っていない。
橋本さんは古風な礼節がスーツを身にまとったような人だった。
キャリアの無い人間に圧迫を感じさせない人だったし、
私の本の責任者でもあった。

この夏、こういう展開におどろいて二男が初めてこの本を手にした。
書いてる時はいなかった子である。
それが、読んでおもしろいと言う。読みやすいとも言った。
「ええ、本当?! 自分でも、よく読めないのに?」
それで読み返すと、若書きということもあろうが、今の私にはこの本が読みやすい。
ホントあのころの私の疲労困憊が自分で言うのもなんだが気の毒である。


当時の保母さんたちの足跡をたどって、各保育園を訪ね歩いた夏だった。
多くの方が亡くなって、今はもういない。
こんな時代にも、
・・・私が30年前に書いた人たちの面影は清らかなまま明るいのだし、
関係者たちの話ぶりがステキで、故人の影響をうけてか陽気、強気、論理的、ユーモラス。
そんな日本人の話に歩くたびふれれば心は落ち着く、・・・とても愉しい。

もらい泣き、という言葉があるけれど、私の今夏は「もらい幸福」だったなと思うのである。