2014年9月19日金曜日

月刊・赤木由子


 天才が身近にいた経験をもつ人は少ない。
天才というと ピカソという印象、あのなんだかキッパリ、ピカピカの名前。
写真のなかの大きくて迷いというものを感じさせない、でっかい目玉。

さて少女のころ、 私には「童話作家赤木由子」と会話?する機会が時々あった。
いきさつはよくわからないけど、どうもご近所さんだったみたい。
童話作家だとか、大流行作家だとかは子どもだから知らなくて、 会話もごくごくふつう。
なにを話すって近所のおばさんと話すようなことばっかり。
それで、たったひとつの話しか、私の頭には残らなかった。
赤木さんはいつもふざけたような、自分で自分ををおかしがっているという顔の人で、
お百姓のおばさんみたいな風情だった。
そんな笑顔で、中学生の私を相手にこういう世間話をしたのである。

「あのねえ、私、このごろ月刊・赤木由子ってあだ名がついちゃってるのよ」
あの東北なまりの温かい低音。さっぱりとした声。
げっかん・あかぎよしこって? と私が聞いたら、
「主人が病気、病気の連続でしょう?、もう手術代が払えないから。
それであんた、こまるもんだから、私が書き飛ばすでしょう、
こまればこまるほど、そのぶん本を出すんだから、もう!」
う ふふふ、と赤木さんは笑った。自分を揶揄するように苦笑した。
「編集者たちがあれは月刊・赤木由子だって。 とうとうあだ名がついちゃったの。
毎月一冊は、私って本を出してる勘定だからさ」
おぼつかない顔で私はうなづいた。
なんと答えたらいいか、まるでわからなかったのだ。

冬の寒い日だったなあと思う。 1950年代。凍ったような廊下と二階へ行く階段。
由緒ありげな幾つかの花瓶や絵がめずらしい家だった。
由緒もなにもそこは岡倉天心の曽孫 、岡倉古志郎さんのお宅だったのである。
父親同士が親しくて、子ども同士も知り合いで、おとなもよく集まる家だった。


今年の夏、多摩市の図書館で、私は敗戦後の児童文学作品をさがしては読んだ。
書架にないので、目録を見せてもらい、とりよせては読むのである。
赤木由子という名まえがなつかしかった。
「夏草と銃弾 」
たちまち子どもだった日を思い出した。ああゲッカン・アカギヨシコの本。
鮮やかな、いかにも書き飛ばしたという感じの荒っぽい物語。

懐かしい私は「柳のわた飛ぶ国」という赤木さんの処女作もとりよせて、読んだ。
満州で育った赤木さんの、これはスケールの大きな奔放そのものの物語。
あの人は実は天才だったのかと驚いてしまった。
考えててもみてほしい。
もしも、あなたの隣にパブロ・ピカソが立っていたとしたら。
ピカソはピカソで、彼なりにはフツウのつもりかもしれないが、
こっちのドキドキがのどを通って口から飛び出すようなことになりそうだ。
ところが、そういう天才がむかし野暮ったいワンピースなんか着て、何気なくよこにいて、
私はその人と話をすることが何度かあったのに、
そんなことには気がつきもしない、思ってもみなかったのだった。
なんてそんなこと!

山花郁子さんは赤木さんと親しくて、私にこのあいだ赤木さんの写真をくださった。
以来、そのポートレイトをノートにはさんで、私はいつも持って歩いている。
山花さんのお話によれば、赤木さんは不幸のうちに一人で苦しみながら亡くなった。
心臓が悪かったのだという。
ご主人をなくし、家が火事をだし、その火にまかれて息子さんを失ったのだという。