2013年6月3日月曜日

朗読の「くぼきんサークル」 5/31


金曜日にひらく
久保つぎこの朗読サークルなので
「くぼきんサークル」という名まえにしたのだそう。
多摩市民塾が六ヶ月で終了したあと、約半数の方がきてくださって、
こういう朗読の会ができたなんて、ほんとうに光栄です。

ひとりひとりの在りようが印象的でふしぎな雰囲気、
六ヶ月間おつきあいしてきたのですが、
それぞれの人が朗読する声音に見え隠れする、
いかにもの日本人「らしさ」が私にはなつかしい。
大震災いらい私は、ヒトのなかに嘗てあった風情をついさがしてしまう。
控えめで、地味で。まーじめ。敏感。親切でそして正直。
大笑い、というのじゃないんだけれど、少しばかり愉快そうな微苦笑。
こういうことって、同世代的だからこその共感なのかもしれない。
一ヶ月に一度、府中というにぎやかな街に出かけ、
みなさんの音読を、私も一緒になってきくなんて、
楽しい。

としをとった人の多いサークルには病気の人が多いと思う。
そうなってからも、声をだして文章を楽しもうという、その気概がいい!
笑いながら病気とつきあい、
文学の助けをかりて勇気をだし、
自分以外の人々の親しみぶかい姿かたちから、かしこく学ぶ・・・
そんな一年のあとで、深みのある楽しい発表会ができたらと思うのです。

5月31日は朗読サークル第一日目。
初日用にと私が選んだ詩と散文を朗読。
高田 渡の短い詩「風」
それから長田 弘著「詩人の紙碑」

けっこう漢字の多い、声をだして読もうとすると自信喪失しそうな、
「詩人の紙碑」にあった「角田柳作先生のこと」という文章。
やや難解。しかしどうしても読めないというようなモノではありません。
副題がー司馬遼太郎氏への手紙ー、手紙なのですもんね。
それに、たまにはこういう文章に挑戦しないと、脳みそが退化してしまう。
すがすがしい明治時代の日本人を書いて、実に気持ちのよい短文なのです。
頭の体操にと思いましたが、
漢字の読めなさに私は自分自身にもおどろいたけれど、
きっと誰かが読めるだろうとアテにしてたら、けっこうみんなダメ。
むかしはこういう時、見回すとどんな漢字でもすらすら読む老人がいたものだ。
ところが今では私がアテにされる立場の「長老」なのであって。
そうか、こういうことかと、
自分をふくめた戦後育ちの「弱点」と「傾向」を今さらながら実感納得。

いいじゃないですかね、今ごろつっかえたってね。
試験じゃなくて鍛錬なんだし。
はははは。