2015年6月20日土曜日

鶴三句会(6/18)


とてもよかったことに、句会の日、常連全員が出席。
力量試しの気配なく、そうかといっていい加減な感じは全然ない、それも愉快のひとつ。
故・小沢昭一さん参加の「やなぎ句会」は二十何年も続いたというが、
「といってもこの句会は、実は俳句づくりは二の次で、ただ雑談に笑い転げるばかりの、
まぁ老人クラブのようなお楽しみ会です」 ー話にさく花 小沢昭一著ー
むかしは句会ってどこが楽しいのかと思っていたけれど、小沢さんの伝えたかったことが、
いまではわかるような気がする。

私たちの句会は、まさに言うところの「老人クラブのようなお楽しみ会」なのだけど、
それでも、ちょっと、ちょっとまって、といいたいような。
鶴三句会では俳句づくりは「二の次」じゃなく、俳句をめぐっての質問感想などで進行、
芸達者がいるわけもないけど、あるがままにそれぞれがのびのびと思うことを言う。
参加している人々の苦闘?の人生と、なんとかそこをくぐり抜けてホッと一息といった、
いかにもの温かさと謙遜が基底にあって、句会は危うく雑談に流れそうでいて流れない。
なんといったらよいのだろう、私は不思議に安定した句会という気がしている。
私たちはみんな運がよいのだろう。
俳句を通して、おなじ場所にくらすヒトを今までよりずっと理解するようになったのである。

今回は三國さんが、だれそれの俳句のたび、急に私たちに質問。
「いまの句をどう思いますか?」
冗談はやめてほしいなー、もう。
ドッキリしちゃって、私なんか当たりませんようにと祈るような気持ちだった。
俳句は自分たちの作である、いいのもあれば、そんなでもないのもある。
しかし批判がましいことを言うにはなんといいますか百年早いでしょ。
私なんか、もともとピントが狂っているから、

春の日や サンデー毎日 多忙なり          平野

これなんか意見をきかれなくって本当によかったあ。
退職後は毎日が日曜日、それはそれで多忙な日々であるという句なんだと、
説明を聞いてやっと理解したけど、 自由業でずっときたもんだから実感が乏しい。
なるほど、いっときそんな流行語もあったっけ。
ひと目みた最初は、「週刊誌」がなんでここに、と内心トンデモないことを思っていたのである。

八重桜 月の明かりに 影深む            三國
八重桜 もの憂く咲いて もの思い          川上

ヒトはたとえばソメイヨシノよりも、八重の桜を物憂いと思うのだろうか。
八重桜よりたとえ満開でも桜のほうが私には寂しいのだが。

なお今回の傑作は自作をアッサリ忘れてしまった後藤婦人で、
覚えてない! ぜんぜん知らないわ! と断言。
「たしかにあなたの句ですよ」と先生に言われて、みんながニヤニヤしている。
後藤さんならばご自分の俳句を忘れたってなんの心配もいらない。
ほかのことは人一倍バリバリとできるのだから、記憶がすっ飛んでもОKなのである。
今日だって後藤さんのたてた珈琲で、緑茶のあと、私たちはうれしく落ち着いている。

母の日の 香りひろがる 甘き菓子           後藤

「思い出したっ!」
後藤さんは、カンラカラカラ、自分で自分を笑っちゃって、
「ケーキじゃなくて羊羹だったんですよ!」
母の日にお嫁さんがプレゼントしてくれた甘いお菓子ごしに記憶がもどったらしい。
それがおかしくて、みんな、ヤレヤレよかったとまた笑った。

今回は、季語の説明は省略するほうがよい、と教わる。

梅花藻や 清流の上に 花咲かせ             木下

梅花藻(ばいかも)は本来、清流に咲く花である。したがって、清流の上にという説明は不要で、
できることならほかの言葉をもちいたほうがよい。
「清流の上に」は、たとえば「わが思い出に」とか「わが追憶に」とかいうふうに・・・・。