2012年1月24日火曜日

信頼という二文字  歯医者さん


きのうは歯医者さんだった。

私はふつうに、
歯医者というともうすぐ「コワイ」という文字にとりかこまれ、
いままでに記録文学で読んだ、あるいは映画なんかで見た拷問の場面を、
ずらずらずらっとなんかこう、自分の記憶のように思いうかべる。

でもこの歯医者さんはちがう。
この歯医者さんは開業医で二代目だけど、
注射でもなんでも、いたくない。
いたかったらすぐ合図して下さいと言ってくれるけれど、合図の必要があんまりない。
お父さんの代から敏感、デリケート、職人的な手先指先のヒトなのである。
(ぜんぜん、こうじゃない歯医者をしっているぞ)

この歯医者さんの医院は、小さい小さい美術館ふうであって、
待合室とみっつの診察室に、
すばらしく立派な絵や書、それから彫刻と写真が飾られている。
これらは、お父さんと息子、つまり歯医者さん自身がえらんだものあって、
どこかの金持ちの患者に御礼にもらったものとは風情がとてもちがう。
(ぜんぜん、こうじゃない病院をしっているぞ)

この小さな医院に入ると、ちょっと厳粛、
自分の趣味とはちがうが、日常とはことなる世界とむきあうことになる。
この腕のいい歯医者さんが、
敏感な心や敏感な腕の支えとして選んだ美術品には、
それ相応の迫力があって、はじめは、
「買うとき、大変な値段だったにちがいない」なんてことばっかり考えるけど、
歯の治療中にすきまのような時間ができると、
「先生はなにがよくて、これを買ったのかしら」
と疑問をもつようになったりする。
もっと知り合いになりたい、ということともちがうのだけれど、
えらばれた美術が伝えようとする世界を理解したいと思うのだ。
(患者のことなんか軽蔑しているドンカン医者を知ってるぞ)

目をつぶり口をあけて、器械はガーガーギリギリ、
歯医者さんは、看護婦さんを助手に私の歯をけずっているのだけれど、
かすかにきこえてくる古典音楽のきれいな音の連続をとらえて、
「あの音でもきいているといいですよ」、とそう言ってくれる。
こわがっている私は、なんとか音符のキレハシにつかまる。
そして、歯医者さんの丁寧で親切な説明をきいている。
なぜこういうことをするのか。
つぎはどうなるのか。
(ぜんぜん、こうじゃない専制もといセンセイをしっているぞ)

ふだんの生活ではそんなことは起こらない。
この歯医者さんに治療されている時、
信頼 という漢字、信という文字と頼るという文字が、
カーテンのようにすうっと私の上に下りてくるのが、嬉しい不思議である。