2012年1月30日月曜日

息子の手


葉山の神奈川県立美術館が「ベン・シャーン」展を開催。
素晴らしいからぜひ行って見ていらっしゃい、と関上さんが電話をしてくれた。
関上さんは柚木武蔵野幼稚園の初代園長だった人で、いま画家である。

ベン・シャーンの作品はモダンで詩的で、すばらしい。
この天才の作品には、
いってみれば左翼であることの幸福が、
つねにはっきりと、のびのびと、描かれる。そこになんのためらいもない。
そういう画風なのだ。

彼は限定をおそれない。
彼の描く麦畑は、あきらかに農民の目、農民の立場でみる畑だ。
彼が描く海原は、漁師が命をあずける海。
彼が描く人間たちは、ゆきずりの物売りや、子どもでさえも、
つねに彼らの立場で存在する。

私たちがながめる自然は、云われてみればもともと限定つきの自然なのだ。

このごろ私は息子の両手をながめて、いつもくるしかった。
日々の屋外労働がつぶした彼の手。
硬く、凍えたように灰色で、血マメだらけの、やせた手だ。

美術展で、おどろくほどの数量の絵、ポスター、写真、切り抜きを見ながら、
じぶんは何がよくわかったのか、何をよりよく見たのか、
ただもう、広い会場を行ったり来たりして、
気がつくと私は、
ベン・シャーンによって描かれた絵のなかのすべての「手」が、
特徴的なほど大きく、大きすぎるほど大きく、
その手のもつ表情のどれもが、殺伐たる労働の跡形をおびて、
私のふたりの息子の手とそっくりなように思えているのだった。

それは、労働する者の手だ。
戦争や不況や核実験があれば、
真っ先につぶされてしまう人間の手なのだった。

いま若い人の多くは、切り貼りの肉体労働をしなければ、生活できない。
生活は、手か魂かを、不当すぎるほどいためつけて成り立つものだ。
それはそういうものだという前提、人生とは常にそういうものだという理解が、
この会場のベン・シャーンのどの作品にもあるとして。
真実は暗く、苦く、孤独で、悲哀感にみち、敗残の影におおわれてさえいるのだが。

しかし、
彼の画布に現れた人々の動き、運動、感情や思考には、
画家が共感し、理解し、敬意をはらい、擁護した生活の一方の立場というものがある。
彼らは存在し、立場とともに連帯している。自然に、また人為的に。
ニンゲンはそういう可能性をもつものだ、というベン・シャーンの確信。
それが、太陽の光をあびたように、見るものを幸福にするのだ。

幸福は幸福。
卑怯に組しない。
権威に従属しない。
あらゆる人間的感情を捨てないで生きる!

自分の単純で素直な生き方を、じぶんで肯定しなければ、幸福もおしまい。
そんな気がした。