2013年11月9日土曜日

立ち姿二つ JR関内駅改札口


JR関内の駅に行くと、人ごみの後方に二人が立っているのが見えた。
まさか私が街をふらふらしていたとは想像もしないとみえて、
二人して並んで改札口の方角をカッとにらんでいる。
背筋をガンとまっすぐにした立ち姿に迫力があった。
こう生きて、今後も同じようにするということなのだろうか。
胸を打たれる光景だと思った。
ひとりは暗い色の古びた背広で、ひとりは厚手のセーターで。
・・・いつか、もう一度こういう時が私にやってくるものだろうか。
こういう出会いなど、もとから無理な相談で、もう二度とないことなのだろうか。

それは二重に寂しい思考であった。

彼らも私も七十をすぎて、とくに二人ともお酒をたくさん飲むのだろうし、
いつ死んでも、ああそうかと思う年まわり、
それに、彼らは私の別れた夫の中学時代からの同窓生で、私の友人ではない。
この秋の一日、私のために揃って都合をつけてくれたことが、
もともと物語的なのである。

この幸運はいったいどこから降ってきたのだろう。
彼ら二人にひきあわせてくれたのは、もと夫のkだった。
二十四年続いた結婚が壊れたあとになって、私はkの友人たちと知り合ったのである。

姑が亡くなったあと別れた夫の家に一年に一度か二度集まって、
天下国家について、読書について、中高一貫の私立男子校の思い出について、
私たちは切り炬燵をかこみ、話したい放題の飲み会をして、
kをはげます会だと称していた。

べつに考えれば、それは一九五〇年代の私立学校の同窓会のようなものだった。
彼ら三人は、みなと横浜の私立一貫校の卒業生。
私が通った世田谷のユネスコ実験学校もまた少人数の一貫校であった。
もっとも小中一貫の私の学校は男女共学だったけれど。
戦後すぐのオンボロ私立の、自由主義的大雑把なありようが似ていたのだろう、
私たちはみな、手前勝手で、愛想がよく、話題にしたいことが沢山あって、似てもいた。

私がkのもと女房であることも、たぶんちょうどよく安定?した事情だったと思う。
みんなで話すときには、結婚も、離婚も、たいして話題になりはしなかった。
私が怒りだして離婚にいたったことは了解ずみだし、
結婚だって離婚だって、五〇代ともなればつまらない話である。
私の居心地が一番よかったのは当然で、
なにしろ、聞きたいことがあればなんでも聞いてよい立場だった。
彼らより二つ年が下だし、kのバカが別れた(とふたりとも社交的に公言)私は、
どっちかというとさそり座ならぬ親父型の女。

kのアルコール中毒がひどくなり、病気が進行し、入退院ということになってくると、
私は、迷惑だと思いながら、ついこまってふたりに相談した。
離婚したもと女房と、夫のむかしからの友人と。
それは私のほうが望むかぎりは、案外平等で、切っても切れない間柄のものである。
もちろん、そんなにたびたびではない。
たびたびじゃないから、二十年ちかい月日が疾風のようにすぎていったのである。
相談するたび、彼らは考えられる限りの対応をしてくれた。
厳しくもなく甘くもなく、納得ができる程度に人間的だった。

親切とはそういうものだと、そう思う。