2013年9月18日水曜日

現実とどうむきあうか①


桜上水で暮らしていたころ
深夜老母が苦しみだしたことがあった。
ふだん我慢強い人が胸が痛い痛いと言う。
大動脈瘤を病んで九死に一生を得たあとだから慌てた。

救急車に来てもらいホッと安心したのもつかの間、
巨大な車は病人を車内に寝かせたきり暗い路上から一向に動かない。
患者の引き受け先が見つからないのだ!

・・・専門医が今日はいない。・・・ベッドに空きがない、・・・応答しない病院もある。
近くの病院に当然電話して拒否されたあとである。
「今まで入院したことがある病院はありませんか、ほかに!」
隊員の切迫した声に進退窮まって「赤十字病院」という名前を言ってみた。
以前白内障の手術をした新宿の病院である。
「赤十字」といえば赤い羽根を連想する。関連施設も多いだろう。
伝手をたどってくれるかもしれない。
ついそんなことを考えた。

さいわい先方が引き受けてくれたらしく、
救急車は高速道路をサイレンを鳴らしながら新宿へと走った。
やっとのこと担架が院内の暗い廊下に運びこまれる。
看護婦が医者を呼びに行き、しばらくして医者が姿をあらわす。
ところが口論が始まった。救急隊員が詰問されている。
なぜここに連れて来たんだと食って掛かられている。
この医者は老母に手を触れようともしない。
冬の暗くて冷え込んだ廊下で、担架の母をながめて一言。
「ああ、痛がってるな」

私は驚倒した。
救急車の隊員さんがまさか病院でこんな扱いを受けるものとは知らなかった。
やっと運び込んだ病院で、医者が患者にも家族のものにも、
ひとかけらの関心も示さないなんて、予想だにしなかった。
寡黙で落ち着いた隊員二人に喰ってかかって恥じないあの口調。
看護婦を見れば遠巻きになって、もうなんにもしてくれない。
「どうしました」とはじめは型どおり親切そうに聞いてくれたのに。

20年前のことだ。今はどんなだろうか。
親たちを私たちが見送ってしばらくのあいだ、
家族の平均年齢がさがって、救急車を呼ぶことなく月日は流れた。

思い出せば、あのころ私はロクなもんじゃなかった。
病院といえば「イノチを扱ってくれるところ」と思っていただけ。
医者といえば「イノチを扱う人」と思っていただけ。
救急車といえば、急場に駆けつけて即刻問題を解決してくれるはずとしか思わない。
つまり家族の命を社会?に丸投げ状態だ。
ただもう社会の仕組をアテにして。

あのとき、棒立ちになったまま、
私は冷淡このうえないお医者さんの顔を、ヨコからながめた。
今にも死にそうな担架の上の継母をなんども見た。
「ではここがダメなら、私たちはどうしたらよいのですか?」
再度問うても、この当直医は吐き捨てるようにこう言うのだ。
「わかりませんよ、そんなこと!!」

このヒトは瀕死の病人が死んで責任を取らされるのが怖いのだろうか。
そういう考えがなんだか不意に浮かんだ・・・。
このヒトの冷淡や権幕はそういうことなのだろうか?
心臓に変調をきたした老母を眼の手術をした病院に運ぶなんて、
むちゃくちゃなのはこっちだと今は思うが、そのことは考えなかった。
だって「赤十字」なのにと、そういうことばかりを思ったのである。

医者も人間で看護婦も人間で、私とおなじ程度の人間だとしたら、
この当直の医師が私なみに怖がっているのだとしたら、
継母に関する「最高責任者」は私だということになってしまう。
なんだかそういう考えも浮かんだ。
では、彼女の命は、この私、ただのバカでフツウの私に懸かっているというのか、
救急車でも、看護婦でも、医者でもなく・・・?
たぶん、そうなんだ。
・・・でもそれが本当だとしたらどうする!
家族の命の責任を担う者が世界に「自分」しかいないとなったら。

私から、サーッと、まるい地球が青ざめて、平面になって遠のいて行くかのよう。

考えたこともない立場だった。
私はなんとか自分で考えようとした。
担架から離れて、病院の待合室に入り、窓から新宿のネオンサインを見る。
「専門家」だと思う人にいくら考えてもらおうとしてもダメだと、キモに銘じたわけである。
戦後民主主義に甘えて。漠然と社会なるものに期待して。依存して。
これまでそれでやってきたけれど、「社会」は本当のところ違う姿をしているのだ。
そして、それが今後良く変ることもないのだろう。
そう認識した瞬間だった。