2013年12月29日日曜日

くぼきんサークルの朗読 12・19


たそがれの時は良い時・・・と少女のころ詩集で読んだけれど、
そんな風合いのしっとりとしたよい朗読を数々きくことができた。
今年最後の集まりではあるし、うれしいことだった。

サークルが誕生して、おさだまりの紆余曲折も当然あったけれど、
こんなふうにのびのびと、ひとりひとりの屈折が好ましい個性として朗読に生かされれば、
もう上手も下手も問題にならない。下手はヘタウマ、上手はイイゾである。
聴いているだれもがそう思うのだから、あーら不思議。
表現ということの究極の目標はーなんていうと偉そうだが、教育の目標と変わらない。
その子なりの感性をだいじにすること。子どもの自己実現のお手伝いをすること。
多面的な考察とともに。人間の幸福はそこからだって思うから。

私の今回のお気に入りは「そぼくな恋」かな。
サトウハチローである。
朗読者はお孫さんに絵本をよんであげたい、というのが朗読の会参加のきっかけだった人。
絵本を読むように、彼女は恋知り初めし時の心を詠む。
それってすばらしい。
なぜならその初恋を想い起こそうとする彼女の朗読には、子ども心がそんまんま残って、
そのセンスのよさが、いかにもなつかしい気持ちをみんなに起こさせたからである。
世相にふりまわされ、素朴を忘れ荒れてしまった私たちみんなの気持ちを、
彼女の素直な、いわば訥々とした朗読が、すがすがしく癒したのである。

印象的で忘れないのは「男の気持ち」という新聞への投稿、「悔恨」の朗読。
93歳の妻を見送った一周忌に、91歳の夫が書いた文章である。
九月とあるから、強い印象を与えられたからこその、朗読者の選択だろう。
さまざまな本を多読する彼女らしいこだわりが実って、興味深かった。
人は哀しいものだという、凍るような大正生まれの男性の詠嘆を写す、悩みの多い声。
もともと個性的なので、彼女の選ぶ作品はごろごろと聞き手の気持ちに引っ掛かる。
そこがいい。理解されにくいが、理解を要求する朗読なので、
否応もなく、聴いている人たちの守備範囲が拡がる、教えられることが多いわけである。
俳優ではない生活者の朗読は、選択いのち。
この日の「悔恨」の朗読は、
愚かで侘しい苦悩を、実感として、私たちに伝えるものではあった。

「エプロンで」は岡部伊都子のエッセイ。
なんということもない昔懐かしい大晦日のおんなの心がまえを書いたものだけれど、
詠み手の声音やいっぷう変わった風情が、この短い風物詩にピッタンコ!
この人は半分、耳が聴こえないのだという。いつも慌てふためいて遅れたり早すぎたり、
テンポが人とズレているんだけれど、最初のころ、ゆっくり読んでゆっくりと頼んだら、
それからというものがんこなほど「ゆっくり」に専念。
そして、そうなったら何を朗読しても生まれついての語り手のよう、本当に素敵なのだ。
味があって、飄々として。
私はみんなに彼女の朗読の真似をしてもらったんだけど、
だーれもうまく真似ができなかった。
みんながクビをひねって、こまってコロコロ笑ってしまっていた。

「原子力」大いなる錯覚、
新聞投稿欄に掲載された主婦の文章を主婦が朗読する。
しみじみ、もう本当にしみじみ、反原発運動のなかにこういう声音が見えていたらと
思わずにはいられない朗読だった。
なぜなら、きけばきくほど普通の遠慮ぶかい日本の女性の声だから。
笑顔がいい人である。あんまり「いい笑顔っ」なので、どうしてときいてみたら、
「おまえにはなんの取り柄もないんだから、いつも笑顔でいなさい」
父親にそう言われて育ちました、というお返事がにこにこもどってきた。
・・・それでその通りにしたら、こうなるの? なんてうらやましいんでしょう。
低めのおだやかな、日常が朗読のすき間から見えてくるような主婦らしい声だ。
ゆっくりと、表に出ない幾百千のおんなの日々の想いが、朗読の下敷きになっている。
朗読教室の愉しさは、こういう表現にもあると思う。
含羞(はにかみ)は生活者のもので、
そのせいか、俳優がつい取り落とす現実感を、スイスイと、らくらくと表現してしまうのである。

鴨長明の「方丈記」を詠んだのは、介護を仕事にしている女性であった。
のびのびして朗らかで論理的。朗読しようと選ぶ作品もいろいろ。
朗読をしているあいだ、なんで彼女が「方丈記」を、と私は考えたけど、
・・・私の大学時代の友人が自動車に跳ね飛ばされてタイヘンなことになってしまった、
そのお見舞いに伺ったときのことである。
彼の言語療法訓練を奥様が見学できるように計らってくださって、
「ういろううり」と「方丈記」を病人が朗読した。
「方丈記」をぜひ朗読したい、これが僕の今の気持ちです、と苦労しながら彼が言う。
去年の冬なんの罪もないのに、首から下、両手も両足も動かなくなってしまった彼である。
言語療法では発音だけを問題にする。
朗読は、一方文学的なものである。
私はサークルでの彼女の朗読を思った。
たとえば離婚してすべてが灰塵に帰してしまったおんなが、自分に正直なもの言いで、
「方丈記」を詠んだとしたら、どういう朗読になるのだろうか。
彼女はあの時たちまち切り替えて、いわば演劇的に「方丈記」を朗読した。
やりきれない、怒りにみちた、投げやりともいえそうな「方丈記」であった。
坊さんの説教みたいな朗読をしないって、そういうのもありでしょ。
言語療法訓練中の彼にも、そう思ってほしいなと。

コカリナを吹く人がいる。
コカリナ的音声の、少年のように硬いまっすぐな声が、いつ聞いてもすっきりと気持ちがいい。
みんなこの声が好き。サークルのよさは、こういうところにあるのかなと思う。
「人間は長所をのばすことでどこまでものびてゆく、短所をあげつらっても悪くするばかり」
とは名優北林谷栄さんが考える顔をして言ったことだけれど、
長所も短所もすごく部分的なもの、これで合格というわけにもゆかない。
だから、つい自己嫌悪に負けてくよくよしてしまう。
コカリナに導かれて、あっけらかんと彼女が朗読する「双子の星」は、
いわば棒をのんだよう。どこまでも硬い。
この硬さ、硬質であるということ、気骨のようなもの、不器用なまでの。
それこそが宮沢賢治的なのかもしれないといつも思う。
コカリナはたくさんの音は出さない。
木や土や、太陽のにおいや、吹く風の気配を伝えるだけだ。
そういう素朴で、自然で、懐かしい世界を、彼女はちゃんと体現しているのだ。
それは宝だって思う。
だれにも見えないその宝を、小さいサークルは少人数だからこそ、
個性として、かけがえのないものとして認められるし尊重もできるわけである。

「風に立つライオン」は、恋の上に「生きる目的」を置いた青年の心情をうたう。
さだまさしの物語詩である。
律儀な朗読者が【鑑賞】という一文をそえて提出した。
この物語詩を朗読する彼は、従来技術畑の人で、退職して、大病もして、
これからは今までとまったく違う生き方をしたいのだという。
みたところ心が緑の野原のよう・・・。
クローバーの柔らかい緑がつやつや光る野原のような、初老。
真似できないなと私なんか羨ましい。
俳句をつくっても、蕎麦打ちをしても、朗読でも、
きっちり取り組んで、しっかりものにして、仲間にもぜひ楽しんでもらいたいと彼は思ってる。
「風に立つライオン」
技術屋で人間のことはわかりませんという彼の【鑑賞】を読むと、
おっしゃる通りのタイプなんだ正直だと、愉快になって嬉しくなっちゃう。
おかしくなっちゃう。
私などは逆の欠点だらけ。心のありようでしか「風に立つライオン」を追跡しないが、
彼は自動車を分解するように、この物語詩を解析。物語の起承転結の具合不具合を考え、
『現代日本人の、心の不摂生の為に過剰にしみついた魂の脂肪の対する警告』かも、
と結論づけたりするのだ。・・・それはその通りなのよね、やっぱり。
感心するのは、途方にくれた顔でその月の朗読の課業を見送りながら、
一か月後、つねに見違えるように彼が変化していることだ。
たぶん律儀に噛み砕いて咀嚼もして、モノにしちゃたのだ?
私はねー。社会人の学びとはこういうこと、「そこでふたたび生きる」ことだって思う。
春の風が楽しく吹く野原のようにね。