2012年12月10日月曜日

岩崎菜摘子の朗読


菜ッちゃんが、一冊まるまる絵本を朗読してくれた。
私の家で、そこにいるみんなに。
リュック・ジャケとフレデリック・マンソの「きつねと私の12ヶ月」。
暁子さんがずーっと眼をつぶってきいていた。

暁子さんは菜摘子ちゃんの母親で、
菜摘子ちゃんはダウン症であり、画家であり、三十五才の童女である。
暁子さんはシングルマザーだ。
学生結婚をし、はやばや離婚し、働きながら菜摘子ちゃんをひとりで育てた。
いま、ふたりは暁子さんと菜ッちゃんとで、なんというか1・5人のように見える。
そんな言い方はおかしいけれど、そう見える。
人間は1人のものだから、1・5人をやるのは苦しいだろう。
暁子さんはくたびれている。
眼をつぶっていても、眼をあけていても、
「田園交響楽」(アンドレ・ジイド)の、あの盲目の少女がけっきょく告白するところの、
・・・人間の顔がこんなにも悲しいものだとは思わなかったという、あの苦悩の顔だ。
でもなんて深みがあって人間的な、きれいな顔なのだろう。

菜っちゃんの素晴らしかった個展の、あるふうっとした時間、
暁子さんに言われて、「きつねと私の12ヶ月」を私は朗読した。
個展のあいだ、もしかしたらタイクツするのかもしれないと思い、
気持ちがわからないなりに、会場におみやげにもって行った絵本である。
菜摘子ちゃんの表情がそんなによめない私は、
朗読が彼女にどうきこえていたのか、本当にさっぱりわからなかった。
でも、個展がおわって何日かたつと、
菜ッちゃんは「きつねと私の12ヶ月」をお母さんに読んできかせた。
暁子さんに。一冊まるごと終わりまで。ぜんぶ。
「菜摘子がそんなことができるようになっていたなんて、知らなかった」
お母さんは私におどろいた顔で言った。
そうかあ。
子どもはおとなになると、絵本を読んできかせるって、しなくなるんだっけ。

菜ッちゃんの朗読は、
10才の少女の孤独な、そして幼くわびしい理解の様相を、
ほとんどあますところなく描き出した。
愛情というものの、途方にくれてしまう様子が、
指でページを繰るために時間がかかり、物語ることばがたどたどしく途切れ、
しかし、曖昧なところのない確実な発声でもって、物語られていく・・・。
それはまことにあの絵本にぴったりの読み方であった。

理解とはなるほどこういうものではないか。
時間がかかり、たどたどしく、しかし結果として心が確実につかまえる、
そういった行為ではないか。

私は菜ッちゃんの朗読をききながら想像した。
岩崎菜摘子のこの朗読も、あの数々の美しい絵も、
岩崎暁子という母親の精神世界からくる複雑多岐にわたる洪水を、
洪水のような言語を、
ダウン症で一人娘の菜ッちゃんが毎日浴び、
洪水だから受止めかね、
それでもいくつもいくつもの言語を、菜ッちゃんの身体全体がどうしようもなく受止め、
おそらく多くは流れ去ってどこかに消えてしまい、
しかし唯一無二の母親を信じ、愛して、こだわる心が、
辛抱づよくいくつかを拾いあつめ、
ゆっくりと菜ッちゃん自身の手で再構成が行われ・・・、
そうやって作品というものは誕生するのだろうか、と。

なんてきびしい人生だろう。
それなのに菜摘子ちゃんの絵は幸福そのもので、
私たちみんなを温めるのである。

1・5人であることはどんなにかたいへんだろう。
岩崎暁子という生来孤独な、小説家になったはずだろう女性の子育てが、
そのきびしさと深みが、たくさんの人たちに影響をあたえてくれたらと私は願う。