2013年2月4日月曜日

預言者エレミア レンブラント

                                    
「エルサレムの滅亡を嘆く預言者エレミア」(1630年)
この絵は、アムステルダム国立博物館に、多くのレンブラントの作品とともにある。


預言者は不思議な感覚をもって、未来にやってくるものを予知する人である。
この絵を見るたび、
預言者でもなんでもなく、平凡無能な生活者にすぎないのに、
私は、自分自身をまるごと描かれているようだと、感じてしまう。

それはレンブラントが、彼の父親の「ある日」をモデルに、
預言者エレミアの絶望を想像、あるいは創造したからではないか。

どんな親も、一生のうちに一度は、ここに描かれたような絶望と向きあうものだ。
ふつうの生活をする者はみんなそうである。
私たちは一軒の家の責任者であって、一国の運命を任されたというわけではない。
しかし、一軒の家も、民族を束ねた国も、
明日破滅するとなれば、責任をもつ者の苦しみはおなじであろう。
親と子を抱えて、責任者となり家長となり、しかし無力でしかなく、
解決策はないのだと絶望するばかりの、「ある日」の気持ち。
むろん、私などは無事に生きのびてきたのであるから、
絶望も、予知能力をもたない者のしょうもない混乱、ということでしかないが。

美しい絨毯と豊かさを思わせる衣装、鈍く光る財宝のかたわらに座り込んで、
ネブカドネザル二世によるエルサレム陥落とユダヤ民族破滅のありさまが見えている人。
少なくとも一族に迫り来る死を感じている人間。

平凡を下敷きに非凡を描き、並ならぬ判断力が無力でしかなくなった「その時」を描く。
この絵を見るたび、私はその二重表現に驚き、そして衝たれる思いをするのである。