2013年2月8日金曜日

鶴三会・句会三回目  1/17



我が団地 ひっそり咲いた 石蕗(つわ)の花

宇田さんの句が、今回、私には懐かしい。
亡くなった花松さんを思い出すからである。
石蕗の花と花松さんの面影は、切っても切れない。
・・・団地の周りに、重い緑の丸い葉をもつ花が奥ゆかしく「ひっそり」配置され、
季節がくれば沈黙のうちに「我が団地」を飾る、その古風さをとても自慢なさっていたのだ。
植栽をめぐる団地内の折々の小戦争のまっただなかに、かの花松さんあり。
憤慨して怒って「なんだテメエは」と言い、細かいがうえにも細かい学術的文章を書き、
管理事務所でも通路でも理想を語り、凝った珈琲を飲み、中国通であり、
景観と美観とはまったくもって別ものなんであって、とかもう怖くって、ははは。
理事会でご一緒させていただいたけれど、献身的で私心がなくいい方だった。
「頼むよ、花松さん、そこから降りてよ。首の骨でも折ったら取り返しがつかないからさあ」
藤棚の高いところで、植木バサミをパチンパチンとどこまでもやる花松さんに、
宇田さんが、何度もおがむように声をかけていた。
言うこときかなかったわよねー、ガンコで。

さて、である。
三國さんがおっしゃるには、花というものは咲いているから花と言う。
だから、「咲いた」と「花」をくみあわせないほうがよろしい。
たとえば、隅にひっそり、というふうに「咲いた」を避ける。
はあ、そうなんですかあ。たいしたもんだなあ。
今回の参加者は10人。
おもしろいねえ、ふーん・・・と合いの手がいちいち感心しているのも愉快である。
投稿(句)は48句。
残念ながら所要あって不参加の方が多かったが、この句会はけっこう流行っているのだ。
今回は力作が多く、老人の集まりならではの存在感だと思った。

介護終え 静かに響く 除夜の鐘

「なんにも思いつきませんので、ただ想ったことを、そのまま詠みました」
村井さんがそうおっしゃると、
「私も100歳の母を介護の真っ最中、胸がいっぱいになりました」という講評。
・・・母親の介護をした頃は、除夜の鐘に耳をすます余裕すらなかった、というふくみ。
生活というものは眼に見えないところで重く進行している、ということであろうか。
三國さんの介護に重なる思いの俳句も、新年ということで詠まれてあった。

百才の 母に紅さし 年迎ふ

三國さんは次の句が、じつに見事である、と言われた。
病気お見舞いなのだろう折り鶴に季語「実千両」を架けた、その発想がすばらしいと。

折り鶴に 光り充ちてや 実千両

明け暮れ闘病の木下さんが届けてくださった俳句である。
「満子さんがお名前ですよね・・・充ちてということばも、この句にぴったりでしょうし」
そうかあ、そうやって、ていねいにていねいに、言葉を考えるわけかあ。
「雑然」が洋服着て歩いてるような私なんか、もうびっくりするばかり。
あーあ、どうしたらいいんでしょ。下手な俳句求む。自分も書くけどひとりじゃ心細くて。
こんなにほめられたのだから、木下さんの欠席が残念でした。

舟小屋も 舟も新らし 年用意

「年用意」は年末の季語ですって。これは三國夫人の句である。
なんときれいな俳句ではありませんか。

三回目ともなると談論風発。感想や質問の鋭さ面白さで、
このたびは、句会終了後「脳みそがとても重くなってた」という気がしましたね私は。