2013年4月19日金曜日

ライブ+打ち上げ


夢がかなったと思えた瞬間。

打ち上げでビール片手に帽子屋さんの秋山さんが西村さんに
「デンシンバシラという曲がすきだったけど、唄わなかったんですね?」
ときいている。
「電信柱」は草野心平の詩に西村さんが曲をつけたもの。
西村さんはギターでそれを唄ってくれた。
立ったり座ったりしているみんなに。
もう一曲と頼んだらもう一曲。
それって誰だってうれしいでしょ。

それから、あっちやこっちでみんなが話したり笑ったりして、
打ち上げがお開きになろうというころ、
わが敬愛する中村さんが、
そろそろ帰るんだけれど、そのまえに今日はたいへん良いライブだったので、
めでたいということで、謡いの「高砂」の部分を、うたわせてもらってもいいかしらと
そうおっしゃってくださって。
私がみんなにそのむねを伝えたら、居間や台所にいっぱいの人が、
たちまちしーんと静かになった。
どの顔もめずらしさと期待とでにこにこしている。
「高砂」がおめでたい謡曲であることは、若い人たちもなんとなく知ってはいる。
自分の結婚式できいた、という人だっているかもしれない。
でも今日のこんなライブの打ち上げで、
「高砂」に耳を傾けようなんて、そんなことはめったに起こらない。
八百万の神さまの仕掛けたミラクル、みたいなことである。
(もっとも、中村さんご自身はクリスチャンなのだけれど)

なんてゆったりとのどかな、平和そのものの「高砂」であったことだろう。

わが団地の白髪の紳士お二人は、うちの古いソファに並んで腰掛けておられたが、
中村さんの「高砂」が終わると、思いがけないことに今度は三國さんが、
三國さんは「鶴三会」ではみんなのだいじな俳句の先生なのだけれど、
ソファから立って俳句を詠まれたのである。
それはこういう句だった。

ライブ聞き 老ひ忘るるや 春の午後

私の家は、おどろきとふわっとした相槌(あいづち)でいっぱい。
思いがけないことが起こったと、音楽仲間の若い人たちも動きをとめている。
これは感謝句とか挨拶句というもので、
俳句の世界ではよく行われることと、あとから教えていただいたけれど、
素朴な、そして奥ゆかしく思われる即興だった。
エドワードさんがその場にいらっしゃったことも私には嬉しかった。
朗読と弾き語りのライブからすべりだした一日が、
私たち日本人というものを、静かにおだやかに表現して、
きれいに終わったのだ。