2013年4月26日金曜日

第4回 鶴三会句会


句会の翌日、今日は輝くような好天である。
青々としたメタセコイヤが強い風にうねっている。
これは、木下さんが詠まれた「春北風(はるならい)」とはちがう風だなと思う。


西行に見せたや多摩の桜かな
若葉もえ空に伸び行く欅かな
木蓮の花痛々し風走る
春あらし御衣黄(ぎょいこう)も散らしけり
春北風去年(こぞ)より強く花(さくら)白し
朝日浴び薄紅の滝しだれけり
黄昏の風ひとふきし花吹雪
我が指をつつき遊ぶや残り鴨
春北風吹きあれてなお蕾つけ
坪庭につつしみて咲くえびねかな
花吹雪想い何処や六地蔵


なんと私たちが住む鶴牧界隈は美しいところではありませんか。
春たけなわ句(苦)をもとめて、
楽しくさまよう心を好ましく思わずにはいられない。
五十句がとどけられ、二十句が披露されたが、
よしあしはあれ、
句会に集まる親しい人たちの、複数の目がとらえたこの春が素晴らしい。

西行法師を詠った中村さんの句から、話がはずんで、
「ねがわくば 花の下にてわれ死なん そのきさらぎの もちづきのころ」
という名高い短歌まで、
いささかの毒をはらんだ西行の家庭からの遁走の様子などもみなさんが語られ、
いつものことながら、おどろきもし心にも残ったのでした。

切り株や我にうらみのヒコバエが

上記は細田さんの俳句だけれど、労働歌のようで今回の私の一番はこれ。
どういうわけか、切り株をかこむ周囲の、伐採をまぬがれた樹木の深緑の色が、
読むなり鮮やかにパーッと頭の中にひろがった。
花のなかにてわれ死なんという感傷とはちがうなにか、
行動をともなっての句の地味な輝き、
三國さんがおっしゃるには、木を伐ってしまう心の痛みがあっての句であると。
本当にその通りとみなさんがうなづいておいでだったけれど、
細田さんをよく知るからこそなのか、句それ自体のもつ力なのか、
ヒコバエ談義も私には新鮮、おもしろくうかがった。

リアリズムばんざい!みたいな。
私のこういう感覚は、若いころ新劇にいて、リアリズムリアリズムと、
先輩方がいうのを耳にしていたせいにちがいない。
私が育ったのは、物書きと編集者の家で、
そこでもまた、私はリアリズムということばを、よく耳にしていた。
子どもの耳でお経のようにきいていたことばが、
俳句の世界にゆっくり連座させていただくことによって、
ああそうなのか、父たち戦後の日本人はこういうことを思ったのかと、
しみじみ得心するのだから贅沢なことではある。

細田さん宇田さんによれば、
植栽関係では植物の名称はカタカナ表記が原則だとか。
名称の正確な伝達こそ表記の目的だからである。
一方、俳句の場合は、できるだけ漢字をつかう練習をすることがよいのですって。
漢字は意味表記というのか、文字そのものが想像を産む。
今回の句からひろえば、
「御衣黄」や「木蓮」「黄昏」「坪庭」、それに「欅」も「花吹雪」も。
漢字のもつ力ということを三國さんは言われ、
あらためて季語の力について、季語をさらに説明してしまうことは避けるようにと、
いましめることでもう一度強調された。
誰もがついやってしまうことなんですがと。