2013年4月23日火曜日

ニワトリのゴンちゃん


千樫がひとりで泊まりにきて、朝がきた。
五才である。
保育園に送っていくのだが、
そこはむかし私の息子が通っていたところだった。
おなじ保育園がすぐご近所に移動したのである。
七階建てみたいな新築都営住宅の一番下の階に。

改悪、という気がした。
べつによく見たわけでもないんだけど、わびしくなっちゃった。
千樫は遅刻を気にしながら、靴を脱ぎ、あわてたふうに上着を脱ぐ。
「また泊まりにきてね」という私に泣くのをこらえた顔でうなづく。
私の子どもだって、どの子も泣きべそをかきながら、
世にもおっかない私という母親に護送されて?
保育園の門扉を入っていったのである。
あのころは私も若かったし、
保育園でもいちばんビンボーという感覚だから、余裕もへったくれもなかった、
知らない、かまうもんかという、それだけのものだった。
しょうがないよ、千樫、こんなもんよ人生って。

でも、それで思い出したのがニワトリのゴンちゃんである。

調布から桜上水に引っ越して、保育園をいろいろさがしてここにたどり着いたとき、
園庭では保母さんがふたり草取りをしていた。
ふるいタオルに麦わら帽子、
にこにこしていたかどうか忘れたけれど、親切な人たちだった。
ちょっと強面(こわもて)のニワトリが一羽、
遠からず近からず、キョロッキョロッと、そこらへんを歩いている。
「放し飼いなんですか?」
そうたずねると、草を引っこ抜く手を休めず、
「ええ、まあ。子どもさんがいる時は鶏小屋に入っててもらうんですけどね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。まあ小屋だけじゃ鶏もあきるだろうし。こうやって」
時々放してやるんだとか。
ふーん。
「子どもが喜んでかまうと、怒って突っつきますからね、ゴンちゃんがね」
「・・・ゴンちゃん」
なるほどそんな感じの雄鶏だ。
「正式には権太というんですけどね。」
保母さんは草取りをしながら、私たち夫婦と話をした。

この鶏は気にくわないとなると大人にだってかかってきますから、そうだろゴン?
まあ、気が強いし、悪口もわかるんでしょ。
こないだなんか、おまえ、卵を突っついて食べて怒られたんだよねっ?
「卵、突っついた?」
ゴンを見るとそこはニワトリ、知らん顔だ。
そうですよ、癪にさわるじゃありませんか、せっかく産んだのに。
だから言ってやったんですよ。
アンタねえゴンちゃん、アンタ、ニワトリだからって仮にも親でしょうが!
親が自分の卵、食べるってどういうんだ!
「ゴンちゃんは? どういう態度だったんですか?」
「そりゃ、しらばっくれてましたよ」
保母さんたちは顔を見合わせ、ねえまったくとかなんとか言っている。
私はこの冗談っぽい保母さんたちがすっかり好きになり、
園長先生に会わせてもらった。
「ここはね、ほらあそこ、あそこで専門の人たちが作ってますから。
ここは給食もとってもおいしいんですよ」
年上の保母さんが湯気のたってるようなプレハブを手にもったスコップで指して宣伝した。

園長先生は新しく赴任したばかりの人であった。
おもしろがってついついきくと、
ゴンちゃんに気に入ってもらえなくて苦労しています、と言った。
「私、ゴンちゃんに気に入られたくて、エサをうちから運んで来るんですもん。」
キャベツとか、新鮮な、ゴンちゃんが好きそうなものを。
私はげらげら笑ってしまった。
まるでおはなしのようじゃないかと思った。
「そこまでしてますのに」
そこまでしてるのに、園長がいくらゴンちゃんに、私は園長なのよと口説いても、
「だめなんです、飛ぶというかですね、私のこと突っつこうとして追っかけてくるんですよ」
ははは。

いまは園庭はせまくなってしまい、ゴンもいない。
貧しくても、人間の手が子どものために手を入れているという「雰囲気」がない。
園の周辺はコンクリート、砂利、荒地のように野草茫々。
保育園の門を入ると、最低必要充分遊具あり。公立。鳥インフルエンザ対策完備。
でもユメのあとだ。ツワモノがいない。
ああいう保母さんや、ああいうニワトリの権タクレは消滅した。
なにがないって、なんだか余裕がない。
ちいさい子どもの居場所なのに。