2011年8月25日木曜日

弟くんのママ、おーい

「ふしぎなバイオリン」という単純な絵本がある。
絵も文もイギリスのクェンティン ブレイク。
私はそれを、山花さんの山荘の本棚で見つけて真夜中に読んだ。
ひらがなばかりの小さな本。

たのしげな彩色のへんてこなページのなか、
気のよさそうな太陽を背に、パトリックというわかものが、
バイオリンを買いにいく。
パトリックがあるいていくのんきな通りは、
とくべつきれいでも、きたなくもないんだけど、わさわさとにぎやか。
そのまんま童話のせかいの町なのである。
で、パトリックはすんなり、バイオリンを買っちゃう。
やせていて、しろい紙のかお色のウスバカゲロウみたいなパトリック。
買ったバイオリンのホコリをフッとふいたら、そのホコリはふわわんとホコリっぽく金色。
池のほとりの草にすわってひくと、へんてこりんなことに、
魚たちがいっぴき、またいっぴきと、空中をとびまわりだす。
その魚たちが、まるで幼稚園の子どもみたい。
ああ、子どもってこんなだったんだ。
で、つぎのページにいくと、男の子と女の子が登場する、カスとミックである。
このふたりもまた、私がしっていた子どもたちにそっくりである。
どこが? 
ああ、幸福になり方が、かなあ。

幼稚園のひだまり門であう人たちのなかに、
どことなくブレイクの描く絵に似たレインボウカラーの母子がいた。
5才の女の子と2才の男の子。
毎朝ふたりは長身のママにつれられてやってくる。
私はオハヨウと言い、弟の小さな手をとって握手しようとする。
かならず坊やが私にあいさつしようと騒ぐからだ。
ママは重い彼を片腕で抱っこし、黙って笑っている。
大きめな2才。歩く時もあれば、ダッコダッコと泣きわめく時もある。
ある日のこと、めずらしく女の子がママとふたりだけで登園してきた。
ええと、名まえがわからなくって、
「弟くんは? どうしたの?」
なにかを思う目をして女の子が、
「かぜひいて熱がでた、だから、おばあちゃんがみてる」
家においてくる時タイヘンだったろうと私は想像したが、
「うん、だいじょうぶだったの」
ママのほうは私たちの話しがおわるまでヨコで待っている、寡黙なのである。
以後、
「弟くん、今日こなかった、うちでおるすばん」
女の子は思いだしたみたいに、ときどき私に報告した。

ながい髪をおくれ毛いっぱい、頭のてっぺんでぐるぐる巻いてとめている。
ママとそっくり系の、胸から肩がむきだしになりそうなTシャツ。
フニャフニャの上着は首から背中のへんまでタレておっこちそうだ。
半ズボンで、というのが幼稚園の方針なんであるが、いつもタイツ。
タイツの上にだらだらんとファッションパンツ。
園庭で走ったら、ころんじゃうよー。
およそ私なんかにはよくわかんない姿かたちでママと出現するけど、でも。
よく見ると、こんがり日焼けして、くったくなさそう、じょうぶそう。
たとえドッところんだところで、ちょっと泣いたら立ち上がるはずの子どもだ。
弟くんにママを取られっぱなしだろうに、気にしてるふうもない。
基本が健康。
そう、これはもしかしたらたいしたことなんじゃないか、と思う。

まだよく舌のまわらない二才が、毎朝、私にオハヨウと言いたいのだって、
考えてみれば、内気で寡黙な母親の、心の奥にあるなにかが始まりのはずなのだ。
好意というものがなければ、オハヨウはない。

ドレイクが描いた子どもの世界には、塀もなければ、規則もない。
子どもや若い親をしばるいいわけは、いつだって、どこにだってたくさんある。
規則と塀のほうから、リクツを出発させたらおしまいなのに。

なんだか、弟くんのママ、おーいという気持ち。


                          ふしぎなバイオリン
                          文・絵 クェンティン・ブレイク
                           訳   たにかわ しゅんたろう
                          岩波の子どもの本