2012年3月15日木曜日

朱蒙ーチュモン


なにか韓流の面白い続きものを観たい、と言ったら、
「・・・・これかしら」
紹介されたのは、韓国のテレビ時代劇巨編「朱蒙ーチュモン」。
おそるべき長編で、七十話以上あるという。
教えてくれた二人は、私の前途になにが起きるか、ちゃんと予知できるらしく、
顔を見合わせ、あいまいな笑みをうかべ、少々同情するふうでもある。
所持してる分だけでもお貸ししましょうか、と言ってくれたりして、
これはたぶん、麻薬みたいに、すごくおもしろいのだなと思った。
「朱蒙」「朱蒙」「朱蒙」「朱蒙」「朱蒙」「朱蒙」「朱蒙」となるほどすごい数。
私がビデオ屋さんへ行くと、流行はもう終わったらしく、
ありがたいことに全巻ぜんぶが、ズラズラーッと並んでいる。

それで借りてきて観るんだけど、観ても観てもどんなに観ても続くのである。
いそがしいのに困ってしまう。睡眠時間をけずるしかない。

気がつくとこの映画には、テーブルを囲むシーンがおそろしく多い。
王様の部屋にも王妃の部屋にも王子たちの部屋にもテーブルと椅子がある。
側室の部屋も偉い大臣の部屋も、敵国に行ってもテーブルと椅子。
会議室に長いテーブルと椅子があるのは言うまでもない。
常に誰かが誰かを訪ね、偉いほうが「通りなさい」といい「座りなさい」という。
これはなかなか合理的な方法であって、
そこで膨大な歴史的経過が語られ説明され、
その上どのエライさんにも当然のように密偵がいるから、
スリル満点それが暗躍し盗み聞きし報告し、
「朱蒙ーチュモン」はまさに、「説明報告演劇」と言ってよい。
私の場合であるが、三十五話をすぎるころから、さすがに飽きてきちゃって、
もうしわけないけどテーブルをみるとしゃくにさわるようになり、
ついに飛ばし読みならぬ、飛ばし見をするようになった。
韓国では一週間に一度の放映、それならワクワクするばっかりだろうけれど、
連日四話を一日で、となると、テーブルと椅子が文字通りの目のかたき。

でもなんてよく出来た時代劇だろう。
そんなになっても見ずにはいられないのだから、麻薬的である。

子どものころ、東映や大映や松竹の時代劇をたくさん観たけど、
雰囲気とテーマとが、とてもよく似ている。
むかしは、日本の時代劇だってこんなふうだった。
論理にごまかしが少なく、単純明快かつ麗しい。
すがすがしいのである。

民族の統合、大国支配の否定。弱者救済。長幼の序の徹底。
指導者チュモンの言行一致。そしてあらゆる「敵」の言行不一致。
それがこの膨大な娯楽巨編の理念である。

五十年まえ量産されていた日本の時代劇も、こうだったなあと思い出す。
インテリは一歩ひいていた気配、残念なことで注目をするべきだった。
一九六〇年ぐらいまでの数々の映画、なかでも時代劇の爆発的大流行は、
庶民や子どもの精神風土にぴったりであって、
あるがままの気持ちに支えられてまかり通った事件?だったのだ。
私たちは毎週のように、そこらじゅうにある映画館にかよっていた。
毎週新しい映画が封切られていたからである。
テレビはまだなかったが、そんなことはなんのその、という勢い。
粗製乱造おかまいなし、そのなかから、大作・秀作もうまれたのである。

大作・秀作は当然残り、粗製乱造のほうは私たちには行方もわからない。
くりかえして見たいと思うようなものでもなかった。
今にして思えば、
個々の作品の価値とはべつに、いっときあんな粗製乱造に勢いをもたせた、
国民みんなの高揚した気持ちが、じつは尊かったんだなあ、と思う。
「朱蒙ーチュモン」のもつ、すがすがしくも単純明快な精神を、
敗戦後まもなくの日本もこんなことだった、同じだったと
知っている若い人がいないのがとても残念である。