2012年3月22日木曜日

「息もできない」韓国映画の秀作


秀作である。私はDVDで観た。

映画を観ているあいだ中、主人公サンフン(チンピラ)を演じた俳優を
どうやって監督が見つけたのだろうか、と不思議でならなかった。

これはドキュメンタリーではない、劇映画だ。
現実の記録ではなく、物語っているドラマだ。
全画面をウロつく主人公サンフンを、ホンマのチンピラに演じられるわけがない。
この映画の延々たるクソ暴力とクソ暴言の連続に、見ている側が耐えられるのは、
高度で、天才的ともいえる俳優の技術が存在しているせいである。

あとで知ったことだけれど、ヤン・イクチュンという脇役俳優35才が、
脚本も主演も監督も編集も製作もした自主制作作品なのである。
それが本国では映画館に14万人を動員。
100万人の観客を動員しないとヒットじゃないんだとかいうが、
そうやってつぶすなんてくだらないでしょ。

日本人でこの役がやれるのは、と見ながらついつい考えてしまう。
寅次郎になる以前の、肺結核手術前後の「噂の渥美 清」だけかな。

「家庭・内外・暴力」。恐ろしいばかりのヴァイオレンス映画。
しかし、不思議でならないことに、
凄まじさのなかに、かろうじてほんの一分の、微妙きわまりないスキマがあって。
そこでひと息つけるからこそ私たち観客は、
このたまらなくイヤミなチンピラにくっついて歩いてしまう。
見るに耐えない場面の連続に最後までつきあい、なりゆきを見届けてしまう。
なにか目には見えない糸が、観客と画面をつないでいる。
そのナゾが、天才ヤン・イクチュンだったのだ。

素晴らしいと思うのは、映画が物語るなりゆきの果てに
有無を言わせぬ人間解剖の論理が待っているせいだ。
それは、人間の暴力は連鎖するどうしても、という悲鳴と理解である。

脚本は会話で進行するものだけれど、サンフンの姉親子の場合を除いて、
この映画に習慣的罵詈雑言以外の会話はない。
生れた時から暴力語しか知らない環境。
罵倒で話しかけ罵倒で返答。セリフといえば相手への否定、攻撃、脅迫、嫌味。
その結果は当然ほんまの暴力。
コミュニケーションなど期待も存在も許されない、無いものは描けないのだ。
もともとのタイトルは「糞バエ」だそうだが、糞バエの生活は、ブンブンブンブン、
罵詈罵倒以外なんの表現の余地もないのである。

私は数日まえに読んだフランス人アンヌ・フィリップの文章を思う。
対極にあるものとして。
・・・それは世界をこんなふうに描写している。


「 金持ちが幸福をつくるものはお金ではないといい、怠け者がどんな行動も
時間の浪費だといい,無学な者が教育で人間ができるのではないといい、
不感症の女が肉欲を超越したと誇り、不能者がプラトニックな愛情が最も
美しいなどというのを、わたくしたちはいくたび聴いたことか? 混乱を招く
故意の巧妙な偽りである。 たしかに金銭は幸福を作らず、行動は逃避で
あるかもしれず、教育ある人間がより立派であるとは限らず、愛が肉体的
なものだけでないということは真実であるが。 」


金銭、行動、教育、愛。そして真実。人間の関心を例えばこんなふうにくくるとして、
映画「息もできない」の人生には、金銭と暴力という名の行動しか残っていない。
教育も、愛も、真実もうばわれてしまえば、人間はこうなる。
アンヌ・フィリップの知的20世紀は、私たちの21世紀に移行して、
私たちは暴力の連鎖にだれもが思い当たるような世界に生きている
という思いに直面する映画・・・。

「息もできない」は少しでも叙情的であるか?
私たちは、それがないとほめることもできないのだが。
この作品が数々の映画祭で受賞し、世界的に評価されたのは、
叙情的な、つまるところ人間肯定に、制作意図があるからだろうか?

ちがうのかも。

こんなことも考える。
おなじ大地に、「朱蒙ーチュモン」と「糞バエ」。
目が覚めるほどの対比で、われに返るとビックリだ。
日本であれば、「笛吹き童子」と「キューポラのある街」ということになるのか。
私は「朱蒙-チュモン」の説明報告劇画形式がメンドウだったけれど、
そういうところが私の、致命的な欠点なのだろう。
おなじ時代劇であっても、韓国の作劇術だと王様の決定通告の前には、
スタンプみたいにテーブルと椅子、たとえ上意下達ではあってもミーティングの場面。
およばずながら視聴者を交えた議論でナットク、という形式が動かずにある。

日本の大衆大ヒット時代劇って、秀作はべつとして、娯楽作品だとどうか。
無想無念、沈思黙考、次の場面は大広間だ。こんなところでなにが言えよう?
上様の面前では切腹を覚悟しなければ反論はできない。論理は切腹を伴うのである。
ミーティング無き土壌。個人的判断に終始する人生。
もしこれが歴史的真実なら徳川幕府は三百年も続いただろうか、こんなことで?

人類の行いのどこに着目して作劇するかは、けっこうだいじなことであって、
民族の気質のちがいがそこで拡大し、改めてつくられ、意図的に再生もされ、
一見そうとわからないところで、案外その国の未来にかかわってくる・・・。

「息もできない」の知的明晰は、韓国の土壌あってのもの、かもしれない。