2012年4月14日土曜日

渋谷、クアトロ、赤い疑惑


「赤い疑惑」がイースタン・ユースに呼ばれた。
渋谷クアトロでライブ。
すごいすごいと、みんなが喜んだわけが、クアトロに着いたらわかった。
クアトロ×イースタンユース。しかもソールド・アウト。

ここは、こだま和文さんのトランペットを聴いた場所だった・・・。
ライブハウスに慣れないころで、椅子をさがしてこわごわ満員のホールを歩き、
やっと見つけた背の高いスツールにむりやり腰掛けると、こだまさんのお母さん
がそこにはいて、昔はこんなもんじゃなかったですよ、と嘆くようであった。
こんな超満員の盛況なのに?
こだまさんのバンド「MUTE BEAT」1982-1990 の栄光がどれほどすごい
ものだったのだろうかと、想像せずにいられなかった。
・・・こだま和文さんが、その日、とても素晴らしかったのはもちろんだ・・・。

さて「赤い疑惑」である。
私は作家 ーというとおかしいが、彼はまだ作家ではないからー の、
アクセル長尾に前から、好感も好意も好奇心も、もっていた。
昨夜クアトロには、そんな若い人たちが大勢いたのではないか。

「赤い疑惑」のファーストアルバム 《フリーターブリーダー》が好きだった、
大傑作だと今も思って彼らのライブがあれば出かけたい、
参加すればわるいけど無意識にも あの頃 を、ついさがす・・・。
なんであれ、デビュー第一作目を越える作品を創ることは至難のワザだ。
才能があればあるほど、
そこに彼らがこれから創る作品のあらゆる種子が横たわっているからである。

しかし、だからなんだと言うのか。
捨てる神もいるだろうけど拾う神もたくさんいるのだ。
「赤い疑惑」の主催するライブは大したことにいつも人を集める。
演奏の完成度だとか立派だとか凄いとかだけがライブの成功とは思わない。

あの頃の彼らが、たまたま表現することができたもの。
虚しい労働。純粋な生活観、シャープな思想、えんりょがちな希望、ムリもない夢、
愚痴と悲しみと悔しさ。その皮肉。粋で陽気な居直り。にじみだす怒り。
私たちが好きなのは、表現された曲の根底にあるアクセル長尾の知性である。
なかなかほかでは出会えない彼のセンスと、感受性のありようなのである。
時代を生きる自分たちとイコールであるような。
等身大の。しかもすぐれて下品じゃない若者。

そこが、アクセル長尾たちのスタートラインだろう、と私は言いたい。

ファーストを越える作品を、「赤い疑惑」はなかなかつくれないでいると
私は思うが、傑作《フリーターブリーダー》 がもう存在しているのだから、
いつか、かならず第一作を凌駕するものは生れるだろう。

思うに、きのうのライブは残念なライブだった。
イースタンユースは、「赤い疑惑」をかるくヒネッてしまった。
ああいう大物(なんでしょ)と対抗するには、「赤い疑惑」そのもので戦うことだ。
イースタンユースって体育会系だなあーと、
なんだかそう思ったのは、「赤い疑惑」の演奏が先行したせいだろうか。
そうだとしたら、それこそ「赤い疑惑」の個性が届いた結果、ということだろう。

ステージとは生きもので、とりわけロックバンドのライブはそこが厳しい。
私は、昨夜の「赤い疑惑」は、自分たちのファン(政治なら支持者というところか)より、
自分たちを呼んでくれたイースタンユースの眼力を意識の上においたと思う。
したがって構成が分裂。生粋のファンがのりきれないで終わってしまったと残念だ。
位負けとはこのことで、無理もないけど、くやしいじゃないの。
舞台の上は下克上、数のたたかいなら、勝てる芽もあったのに。

ガンバルぞー、とアクセルは言った。
生きなきゃならないから、と。
ああ、いくらなんでも残酷無残なこの日本という国で、
私だってそう言いたいしみんなもそう言いたい、解放されたくてここに来る、
「赤い疑惑」の成功に友達が大喜びし、感情移入までもするのである。

昨年の3・11以来、
どんな作品もそれまでの価値を失い瀕死の憂き目をみていると思うが、
《フリーターブリーダー》は生き残っている。
ほかの時ならともかく、昨夜のようないわゆる極東最前線では、
美空ひばりの《悲しい酒》のように、「赤い疑惑」もオハコで戦ってほしかった、
と思うけれどどうでしょう?

最後に、「赤い疑惑」を呼んだイースタンユースの眼力を讃えたい。