2012年4月22日日曜日

引き裂かれる判断 ー続き


3月28日の東京新聞朝刊、第一面の見出しはこうだった。
福島2号機
格納容器内7万2900ミリシーベルト 6分で人死ぬ量
東京電力が、3月27日、そう発表したのだという。


こう書いてあった。
「この値の場所に六分ほどいるだけで人間は100%死亡する。炉心溶蝕(メルト
ダウン)した核燃料が原子炉を壊し格納容器にまで溶け落ちていることが、高線
量の原因。これほどの値だと、ロボットでも長時間の作業は難しい。廃炉に向け、
さらなる対策が必要になりそうだ。」

事故を起した原子炉。
7万2900ミリシーベルトの放射能。毎時。
ロボットになんとかしてもらおうにも、
ロボットを動かす肝心の電子回路などなどなどが放射線で壊れ、
現状を調べるための「内視鏡」だって、半日ちょっとで壊れてしまう。
東電によれば、
「高線量に耐えられる機器を開発する必要がある」。
東京新聞の記者の質問に
東電の松本純一原子力・立地本部長代理がそう答えているのだ。

手がつけられない、ということだろう。
13日には、4月12日、今度は福島第一原発4号機が冷却不能となって、という報道。
この場合、1,2,3号機はOK、というわけではない。
もし制御不能の原子炉がここでふたたび爆発したら。
東京など半径250キロ圏内は即座に避難すべき土地ということになる。

ではどうするのか。
ふたつの方法がある。
真実と正面から向き合う。または真実を見ない。

私自身は、現実逃避は悩みをふやすだけ、という結論である。
経験上そう思う。
訳もわからず、いらいらびくびく、が一番よろしくない。
第一このトシになって、なんにも知らないカンケーねえ、は通らない。
なんのために大学教育を受けさせてもらったのか、
なんのために三人の子どもを育てさせてもらったのか、
なんのために結婚をし、離婚をしたのか。
なんのためにびんぼー、ビンボー、貧乏をくりかえしたのか。
なんだか、どうしてもまとまらない私の一生で、
劇団に所属し、物語を書き、学習塾で教え、企業に雇われ、ちいさな会をたくさんやって、
朗読を教え、幼稚園で働かせてもらい、息子たちのロック・バンドのライブをながめ、
たくさん本を読み、たくさんの人に会い・・・。
要領のわるい迷走人生で、たいした人間じゃないが、
原発の事故ってどういうことなの判りません、なんてことは自分としてはナシである。
どんなに頭が悪いか知らないが、そんな権利はアンタにはないよ、と私は自分に言う。

ではどうするのか。
死ぬまでは、生きる、希望をさがして。
希望をもって工夫しながら、自分としては新しく生きよう。
生きのびるための工夫と相談を、みんなとしよう。

子どものとき、子ども用の「人間の歴史」という本が、家の本棚にはあった。
地球にもしもう一度氷河期がきたら、という心配に対して、
しかし、原始人でさえ氷のなかで生きのびたではないか!
そう書いてあったなあと、思い出す。
それはワクワクするほど楽天性にみちた歴史の本だった。
ー理論社版 「人間の歩み」全3巻  イリイン/セガール著ー  

いま、私はワクワク しにくいし、人並みにユーツであるが、
しかし年齢相応の自尊心をもちたいと思う。
そういう考え方が自分としては新しい。
原子炉が例えどうでも、
ウツになったりヒステリーを起こしたりして、弱い者に当たるのはサイテーかもと思う。
自分と自分の身内の心配しかしない、というのもダメだ。
行きづまる、煮つまる、というのも私としては沽券にかかわる、と考えたい。
なんとか相談しながらでも切り抜けるのが、21世紀の人間ではないか。
原始人が氷河期と戦うのと、原子人が原爆期と戦うのと、
どっちがいったい?!

学ぶことだ。
つきあいを拡げることだ。
どうしようもなかったら相談して。
私にとって、誇りとか勇気とかは、そういうことである。

もしも、よく考えて東京から早めに避難しようと思えば、それがいい。
放射能の濃度が低い地域に子どもを疎開させなければならない。
それはどうしても必要なことである。
しかし、ヒトは「健康な肉体」のみで延命できるものではない。
移動が不幸をともなうなら、よくよく検討した結果、それが実行不可能なら、
西へ西へと逃げても、延命になるかどうかわからない。
なにしろ、三年に一度、日露戦争をしているようなもの(加賀乙彦)、
自殺者があとを絶たないのがわが国である。
だいじなことは、真実とむきあって、よく考えて、
人間的な決心を自分の力で見つけだすことだと私は思う。

東京でくらし続けるなら、子どもを生かすために、
おとなは、なんらかの方法で、
原子力発電の再稼動を停める行動にかかわるべきである。
私たちは、「なんらかの方法で」という新しい方法を、
自分でたくさん発見しなければならない。
工夫しなければならない。
そう思う。