2012年11月24日土曜日

朗読・「100万回生きたねこ」


家で朗読の会をする場合、ポストに何日かまえ文章が投げ込まれる。
公園の木がいっぱい見えるせいか、これが私には童話的できごとに思われて
いつも楽しい。枯葉の秋なら、なおさらである。

今回は「100万回生きたねこ」と「異人たちとの夏」「すてきな三にんぐみ」そして、
小6の教科書から西研(にし けん)の「ぼくの世界、きみの世界」が入っていた。
「100万回生きたねこ」については手紙もあって、
それがまた森の動物のだれかから届いたみたいなおもしろい手紙。

手紙
『 今回この本を選んだのは 
「ブームになっている」「図書館に行くとどこでも必ず飾られている」 からです。
自分も昔購入して10年くらいになりますが、とってもわかりやすいので、
子どもも老人も みんな 好きになるような、それでいて
内容が他にない、深そうなひきつける魅力があり、
自分にはそこがよくわからないので、ぜひ久保さんの解釈を
お聞きしたいのが、やっぱり選んだ 大きな理由 です。』

よく書けた手紙だと思う。魅力的。
こんがらかり方がおもしろい。
朗読をするには、こういう疑問のもちかたがだいじである。

さて私の考え
この絵本はひとつの物語が半分にわかれている。
りっぱなとらねこが100万回死んだ話と、そのとらがもう一回だけ生きて死んだ話。
はじめの半分は「きらい」ということばと「死んだ」のくりかえし。
あと半分は一応ふつうの物語、100万回も死んだ主人公のりっぱなとらが、
ふつうに生きてふつうに死ぬのである。

まず絵本を開いて、私たちおとながひたすら、すらすら読むと、
つまり、どうなっているかとあらすじだけをたどったりすると、
絵本は、後半、急に頼んでもいない月並みな回答を与えはじめるのだ。
愛のホンシツはとか、愛されるだけでは人(ねこ)はホントウの満足はとか、
きいたふうな物語が展開するのである。
前半分のヒネクレ方からすると、後半分がみょうにスナオで落ち着けない。
正しすぎるし、哲学てき、みんなが気に入りそうすぎる。
そこが、どうもなんだかわかるようで、よくわからないところなんだろうと思う。

しかし、である。
作者佐野洋子の日本人ばなれしたものすごさは、そこなのだ。
「100万回生きた猫」は、独立、ということをわかりやすく話した絵本なのだ。
個性とか独立とか自立とか、とにかく個体ということについて。
個であることは、極限まで圧しまくると、
「気にいらん」
つまり「きらい」ということなのかもしれない、のではないか。
めったなことで私たちは「きらい」じゃない人間にめぐりあわないのかもしれない。
100万回死んで、だれかにあいたくて100万回生きなおしたとしても。
・・・生きとし生けるものが、そういう存在だと、絵本にまぎれこませて語る絵本・・・。

孤独であること、独特であること、個性的であること、自分らしくあることを、
感じがわるいとか、ヒネクレてるとか、反体制的だとか、えらぶっているとか、
そう考えずに朗読しないと、そこをよく考えないと、工夫しないと
子どもたちは、
このとらねこさんをちょっとキライになっちゃうかもしれませんよね。


「異人たちとの夏」(山田太一・新潮社)ですが、
なにはともあれ以前この映画を観た人がいて、朗読をききながらもうずーっと、
きいてるあいだじゅう、思い出しては泣くのですね、ははは。
そんないい映画なら観ればよかったなー。
ビデオを借りに行こうと決心しました。