2013年5月27日月曜日

定義


武蔵野市は三鷹や吉祥寺がある地域。
そこで福島から避難してきた詩人の「涙茫々」という詩集の出版記念会が行われた。
三人の来賓が前にならんでパイプ椅子に腰掛けていた。
武蔵野市長と詩人の石川逸子さんと西田書店の代表だった。
三人は偶然にもおなじ色調の正装、生なりの麻のスーツで、
ああ夏になったのだと私は思い、懐かしい美しい光景だとしみじみ思った。
詩人はどこにいるのだろうか。
私はこの出版記念会があることを新聞で知り、
連絡先とある詩人の電話に申し込みをして、
岩崎暁子さんと菜摘子ちゃんをさそい参加したのである・・・。

正直なところ
都会でくらして、
メタセコイヤの大木なんかがならぶ通りに
ありがたく住んでいると、
目は庭の木の緑の枝や
私が植えたスイカズラの淡い色をさがし、
この空気には
まがまがしい放射能の毒がまざっているのだと思うのに
不人情になる
もっと直接的な
苦難にあえいでいるのだろう人たちを
どうしても忘れてしまう

親が
そんなふうなニンゲンじゃなかったので
私の血という血は、
いつもふたつにわかれ
ふたつによじれて流れる
ラクをして生きてしまい
もうしわけないことである
私は時々発作的に、
よい人みたいにふるまうが、
あとはぜんぶ自由ワガママ勝手にやっていて、
いつだっておちつかない

テレビはきらい、
新聞の政治面には歯がたたず、
教科書もダメで、
ああ、こまったあげくのはて、
当事者が語る集会にでかけて、
なんとかいろいろわかろうとするが、
いつだってそこにいるヒトたちとおなじ生き方ができない・・・
ではそのかわり
いったいなにをするのか
いったいなにをするのか
こまっていたら
図書館で
こういう定義を見つけた

「 地図の端っこに、いまにも海にこぼれ落ちそうについている    こんな印の中で、孤独、
焦燥、かずかずのジレンマと闘いながら、ふなびとを守る光一すじに一生を捧げるその
あけくれは、うらやましいほど美しい。波の音と、霧笛にすぎるその日々の、唯一のささ
えになるものは、人間同士の信頼と協力以外には何もない。ヒトをそねみ、そしり、疑う
以前に、根の張った和で結ばれている事実は何よりもすばらしい。インタビュウーの最
中にも、誇りと自負に満ちたほのぼのとした雰囲気を感じて、日本全体が、もう少しこん
なふうであってくれたら・・・と思わずにはいられなかった。」

これは故高峰秀子さんの灯台守夫婦についての文章である。

こういう一生を送ったのだろう人、詩人小島 力さんは、
福島県葛尾村の郵便局員であった。
労働運動と音楽運動に一生をささげたヒトでもあった。