2014年4月5日土曜日

映画「シンプル・シモン」について②


理由がよくわからないまま、
なぜ私はいちばん好きだと思う登場人物を、
たまたまヒロインを訪ねてきた二人のヒッピー風の少女にしたのか?

感覚的に選ぶとそうなる? 私の場合そうなるんだけど・・・。
座席から立って前に歩いて、小さいハートを人物名の下に張りつけたあと席にもどって、
おくればせながら、自分が選んでしまった理由を、考えようとした。
司会者に、なぜあの二人を選びましたか、ときかれたら困る。
大学の企画である以上、感覚それまでよ、で済ませるわけにはいかないとも思った。

キャラバンの人たちの苦痛に満ち、愛情のなんたるかを示すことになった作文。
彼女たちは、この10年のあいだにとても変化した。
それは信頼するに足る絶対的な変化で、その中心にはなにかだいじな、
必要不可欠な、それこそ肝心かなめの思想が、あるのだろう。
本人がわかって書いているわけではないが、
5人の作文のどれもに、無意識のうちに現れているなにか、である。

映画「シンプル・シモン」が描く世界の下敷きにもまた、、
私が手提げに入れて持ってきた作文の中にある何かが隠れている。
そういう気がした。


大学という装置。
よくできた鋭敏で美しく、楽しい北欧の映画。
必然的問題提起をふくむゆるやかなワークショップ。
たくさんの小さな峠をタクシーが登ってはくだる遠い大学を訪ねてよかったと思った。
私は映画のヒッピー風の少女たちに自分がこだわる理由をつかんだと思い、
明日、キャラバンの母親たちがきたら伝えたい考えをつかんだと思った。

「子どもなりの時間」という概念。
童話作家で詩人のミヒャエル・エンデのいう「時間ドロボー」という熟語がそれである。