2014年4月5日土曜日

映画「シンプル・シモン」について③


シモンは、シンプルな自分本位の世界から、複雑そのものの部屋(イェニファーの)に
迷い込む。チラシが語るスウィートフル・コメディ―の始まり。
ああでも当然複雑なことが起きる。
ヒッピー風の少女ふたりがイェニファーを訪ねてきたのだ。
ごちゃごちゃごちゃごちゃ。
おお、こわい、冗談じゃない。
シモンがタイヘンだ。
人とのつきあいが苦手。いちいちこだわる。場を見るとか空気を読むとかダメのダメ。

ところが、なぜかイェニファーの友達ふたりは、シモンにやすやす馴染む。
シモンもほかのみんなもギクシャクを気にしないで、なんとかやってるのが不思議だ。
いったいどうして、そんなことが可能なのかしら!
それはつまり・・・
彼女たちが時間を自分にあわせてコントロールしてよいヒッピーだったから?

以前、フィンランドの幼稚園と保育園を訪ねたことを思いだす。
あの時は、本やブックレットを何冊か手に入れて読んだ。
学者じゃないから、なんでもわかるわけではなかったけど、
子どもの基本的人権ということを、シンプルに考えるようになって帰国したんだっけ。

つまり、見た目にも、革命的教育相ヘイノネンの書いたものを読んでも、
フィンランドの子どもは、時間を自分の能力にあわせてコントロールしてよろしい、らしい。
国家組織の根幹に 、時間ドロボーにはなるまいという憲法的配慮がある。
別になんとか症候群じゃない子にたいしても、配慮の基本は同じである。
人間は人間、たいして変わりはない。差別は無意味だ、という理解である。

もちろん、学校は大人が子どもにさしだす制度だから、その自由は「比較的 」なものだ。
フィンランドの子どもだって、学校を憎むかもしれない。
バスに乗ったら、なんともしょうがない少年が少女と、なんともしょうがない騒ぎ方をしていた。

それでも、日本から出かけた私にとって、
税金を惜しみなく教育の装置に投入する体制は、おどろくべきものに思われた。
学校や幼稚園や保育園の原則はいつも、どこでも同じ。
入園当初のわが子が保育園に適応できなければ、会社は親の育児休暇をさらに延長する。
法律が会社組織に課したそれが義務なのである!

生徒は、頭が疲れたら、図書室や休憩用に用意された居心地のよい場所に、
休みに行く、大学生たちがそうするように。授業中でも・・・。
いつまでたっても勉強する気を起こさない生徒はどこにでもいるだろう。
そういう子どもをどうする?
日本では親子は学校の「相談まがい」の結論にあわせる。
このあいだ、私はある母親から部活の担当教師にこう脅されたときいた。
「僕が10年かかって積み上げた教育方法を変えろとおっしゃるんですか?」

フィンランドのほうは、職員会議で討論研究しながら、
授業の仕方を先生たちの方こそ、自分のクラスの現実に即して変えるのである。

キャラバンの母親たちが10年かかって、個別的に達観したこともそれだ。
苦悩とよびたいような事実の羅列の中から、彼女たちはある考えをつかむ。
そしてその考え方を見つけたことで、自分が変化する。

子どもは、その子なりに必ず成長する。
それが一番よい成長の仕方だと認めよう。
ごめんなさい。ありがとう。
わが子がどうしてもゆずれない自己選択を、母親が強引に無視してなんになる?


映画の脚本家や監督と肩をならべるような、いい作文だったなーと思うのである。