2014年12月16日火曜日

朗読の会 12/15


まずコーヒーがあって、
トルティーヤ、各種おにぎり、クロワッサン、私はコーンスープと
カレー風味のジャガイモのお団子を、せかせか、手伝ってもらって蒸した。
テーブルの上は朗読どころか、チョコレートを横にどける騒ぎ。
暖かくなる。気がゆるむ。こわがらなくてもいいというスタートだ。

私たちは堅苦しい教育を受けてきた。
ついつい試験を受けるような気持ちになって、テーブルについてしまう。
これから先生(私だけど)の前で朗読、と思えば余計ビクビクもするだろう。
 
むかし北林谷栄さんに朗読の稽古をしてもらった時、私はおっかないばっかりだった。
「ばかっ 」とウンザリしたように怒られたこともある。
北林さんが「ばか」と言えば、それは救いようのない無能力なバカという意味である。
その叱責は納得、反省、信頼、全部、肯定とそんな漢字を私の脳ミソに残した。
あの時よりましな表現者になったと思わないので、思い出は今もにがい。
あの頃の私は舞台俳優として認められたかった。
プロになろうというのだから、
厳しく裁かれても、本当に仕方がないことだった。

それはそれとして。
朗読はなにも俳優の専売特許ではない。
こんなに食べたり飲んだりしつつ順番で朗読なんかしようものなら、
北林さんはコーヒーカップをブン投げるかもしれないな。
そう思うとクスッと笑えてしまう。
日も暮れよ鐘は鳴れ、月日は流れ私は残る・・・、思い出はけっきょく愉しいものだ。
この私にだって上等博覧会ではないにせよアタマはついている。
私はいつでもみんなにのびのびしてもらいたい。
誰の前に出てもラクに呼吸し、自分なりの基準をもって、楽しく言論を行使してほしい。
あの人にぜひあってみたい、みたいな人になってほしい。

今日はそういう朗読の目標がかなった日だった。
介護と学校のトラブルに疲れはてたお母さんを、あとの二人が「ゆっくり」させたのだ。
世間話ばかりか朗読も、疲れ果てた人を癒やすことになった。
二人はそれぞれユーモラスなカラス博士の随筆と三好達治の童話を詠んだのだが、
心が傷んで涙が眼の縁まできている誰かに聞いてもらいたいような清々しい朗読だった。
片方はユーモラス。片方は神秘的。

彼女の方は「夜なべ」という随筆を朗読した。
若い女性の、真意のよく伝わらない文章を選んだのはなぜだったろう。
払っても払ってもにじむ疲労の中で、古来伝えられている母性の孤独な温かさを、
自分の心の底になんとか保とうとしたのかもしれない。

ひとつの文章を選ぶことはそれ自体が繊細な自己表現だ。
朗読には、複雑な自己を整理して明日へいく、そういう健康な楽しさがあると思う。

そんなふうにして四時間がすぎた。