2014年12月25日木曜日

あけがたの光


早朝5時に起きて居間のカーテンを引くと、
暗闇の向こうに明かりをつけたバスが留まっている。

乗客のいないバス。運転手さんが時間調整をしているのだ。
エンジンの音がし始めて、バスに命がふきこまれたのがわかる。
私の家の、といっても集合住宅のひとつであるが、ガラス戸を通して眺めていると、
土手のまばらな雑木の下のほうから、ミカン色のバスの室内灯が、
孤独なような、清潔なような、一日の始まりを教えてくれる。
私は夜明けの暗い空をながめメタセコイヤの冬の枝を眼でさがし、
運転手一人が乗っているのだろうバスを見る。
そこで、一日の確かな労働がもう始まっている。

その人は、彼の労働によって元気づけられる人がいるなんて、思いもよらないだろう。
私たちの日々はそういう思いからとても遠い。
パワハラにセクハラに子ども殺し。東京駅100周年記念のスイカに殺到する人々。
でも本当は、大勢の勤労をくりかえす人によってこの世はできているのだ。

誇りを失い、なんでも人のせいにし、短絡化し、あげく投機に走る、そんな人たちを
なぜ新聞も雑誌も小説も追いかけるのだろう?テレビは囃し立てるのだろう?
良識があり、よく考え、我が国の平和憲法を守らなければと実際に動く人間を、
マイノリティ(少数派)だと人は言う。
よく考えれば、最近起こるみっともない大騒動に参加している人たちだって、
極端なマイノリティなのに。