2014年12月6日土曜日

映画「ドストエフスキーと愛に生きる」


もうずいぶん前から、居間の掲示板にこの映画のチラシを貼っておいた。
2009年/スイス=ドイツ/93分
きれいなおばあさんが樹木の見える窓の手前で仕事をしている。
翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーである。

スヴェトラーナ・ガイヤーは、
ウクライナで生まれ、1943年、キエフからドイツへお母さんと亡命した。18才だった。
お父さんは彼女が15才のとき、スターリン体制下投獄され拷問され釈放され、あげく病死。
ヒットラーの軍隊がウクライナに侵入.首都キエフを占領。2年と半年後ドイツ軍撤退。
ドイツ語の通訳者だった少女と家政婦をしていた母親は、
スターリンよりはヒットラーを、ロシア人よりはドイツ人を信じることに賭けた。

ドイツ占領地区でドイツのために働いていたのだ、
スターリンが勝利すれば彼女たちはロシアに対する裏切者である。

一方、ドイツ軍将校と反抗的官吏が、目前の少女に教育を与えようとする。
ドイツ軍はウクライナ占領中バービイヤールの谷でユダヤ人大量虐殺を敢行した。
しかしながらある人々は、敵国の若い並はずれて優秀な頭脳を惜しむこともしたのである。
ドイツのために一年間働いて、教育を受けろ、ドイツの奨学金をあたえるからと。

・・・画面の、すばらしく美しい84才になる老女。大勢の孫たちをふくむ家族。
アントン・P・チェホフが考えようとした通りの「人間」。

「人間にあっては、すべてが美しくあらねばなりません、
顔も衣服も魂も思想も住居もすべてが」

かつてチェホフが言った 、いかにもそんなふうな。


彼女の思索のすじみちは、そもそもの背景が複雑きわまりないので、難解である。
・・・スクリーンに大きく映し出される彼女の表情。文学と哲学のメッカで鍛えられた言葉。
まるでスヴェトラーナと直接遭っているかのような、魅惑的で美術といいたいような画面・・・。
洗練の行きつく果てということか、知的だからこそか。

私は、おもしろいのと、さっぱり判らないのと、考えがまとまらないのと、好奇心と。
11時の回を観て、家に帰り、夕食の支度をし、掃除をし、洗濯ものをとりこんで、
4時の回をもう一度、見に行く。空席が多かったから、前から4列目の真ん中 に、
メモ帳と鉛筆を手にもって・・・。

暗闇で書いたメモは不正確で、自分でもよく読めないが、
最後に彼女がはるばる訪ねたウクライナの首都キエフで、学生たちに
童話を話してきかせたことが書いてある。

あるこどもが、ことばを話す魚に出会う。
そして彼はそのずるい(?)魚の助言で旅に出かける。
そうして、かわいい娘にあって、
しまいに皇帝となる。

「人は人生の途中で、いつか、かならず言葉を話す魚にあう」
老いたガイヤーは教壇の机にもたれて、若々しい学生たちに、おかしそうに微笑んで言う。
「それは常識とは無関係で、社会科学や自然科学ともなんにも関係がない言葉だ。」
でもその、言葉を話すみんなにとっての魚にであったら、
その時は魚の助言にしたがって、旅に出るのがいい。

憧れ。彼女はいう。発音する。あこがれ。なんてすてきなことば、と。

人生の目的は存在することではない。
人の存在は目標をもつこと、目標を達成したとき、存在は正当化される。


ほんとうに、こう言ったかなあ。
もう一度たしかめたいけれど、一日だけの上映で。