2018年2月8日木曜日

新劇女優の家


北林さんといっしょに千歳船橋の彼女の家にもどる夜があった。
門の柵を開ければ、洒落た階段の上にノッカーつきの玄関扉がみえる。
右側に鎧戸がついた窓。左側にも両開きの木枠をしつらえた小窓がついていて、
私がたくさん読んだ童話や少女小説の挿絵が大人になったような家である。
小路から小さくはないそんな家を見上げて、
降るような星の輝く晩、北林さんは私におかしそうに言うのだった。

ここに立つとお母ちゃんは、よく働いた、あんたはたいしたもんだと、
自分で自分に言うことがあるのよ、おかしいと思うでしょうけど。
天井も、台所の皿小鉢も本棚の本も、台所のドアだってぜんぶこの自分が
働いて買ったものだと思うと、あんたはえらいって。
だーれも褒めてくれないけれども、そう言わずにいられない時があるのよ。

それは芝居の一幕四場のよう、現実とも思えない光景で、
世慣れない私は、彼女のモノローグに耳を傾けるばかりだった。
玄関脇を右にぐるりとまわって庭にでると葡萄の葉が絡んだテラス、
庭には大振りの白樺の木、草花の茂る小庭の向こうに木造の洋館。
北林さんが建てて、人に貸していた家だ。
月は空にかかり、暗闇がほんのり、風に小草がゆれている。
いつかこのテラスでチェーホフ劇を、と言うのを聞いたこともあったのだ。
1960年代のことである。