2015年10月21日水曜日

同窓の会


 文学部のクラスメイトからのメール
「 そうなのですよ、一生の財産なのです!
  たとえ喧嘩しながらも共に友達なのです(笑)
  また会いましょうね 」

私たちの大学の卒業式は、学園紛争のさなかにあって、中止されたのだった。
そのせいか、クラスメイトの幾人かは1966年以来、
毎年一回、冬が近づくと待ち合わせて酒場に行き、旧交をあたためあう習慣、
最初は大学のある高田馬場、それから新宿で、川崎や、目白だったこともある。

なにしろ専攻が教育学。私みたいな興奮型はあんまりいない。
温和でシンの強いタイプが多く、私には彼らがどんな人間なのか見当もつかない。
じぶんは異端だ、嫌われている、と終始ひがんでいたけど、
それでも私はクラス委員になって、クラスの文集を編集したり、遠足に出かけたり、
むりやりクラス討論をしたりした。1964年と1965年である。
まあ不器用な押しつけだったと、いま思い出すとゾッとしてしまう。
和光学園の中学校で生徒会長だった、そこで覚えた民主主義・のようなものを、
基本どおり大学の学級でやってしまったということなのだ。
それは当時からの、私の身についた義務感のなせるワザで、今もあまり変わらない。

全共闘派らしいクラスメイトから議論をふっかけられて、支離滅裂に対抗。
みんなから嫌がられていたのが別のセクトの私でしょ、という始末におえなさ。
卒業のあとも、もうずっと私はそういう気持ちを宿命のごとく抱えていた。

大学にクラスがあったというと、今はみんながビックリするけど、
あのころの文学部にはクラスがあったのである。
ビックリされるとこちらもビックリするほど、それは自然なことだった。

私は3年から編入した教育学専修でクッキリ浮き上がった不幸な存在であったが、
クラス活動をむりにも強行?してしまったおかげで、
何人かの同級生に、素朴ともいえる好意を抱いた。
それはハッキリした感情で、何十年たっても、今でも不思議にそのままだ。
卒業式が潰れるほどの紛争の時代だから、政治的には考え方もちがったが、
同い年のヒトの強い心の持ち方に、青春の自由さで、惹かれてもいたのである。

卒業してから一年に一度、10人ぐらいがなんとか時間をつくって逢う。
その後のみんなの人生がどうなのかも知らないで、目的もなく再会する。
私にしてみれば、自分は「ビンボー・失敗・不安定」、彼らは「順調・出世・安定感」、
もうずっと違和感がつきもので。
そう。年とともに違いは明らかになるばかり。みんなは職業を全うして、
編集者になり、学校長になり、教育委員会委員になり、会社に生きがいを見出して。
私に言わせれば予定通りというか予定調和の人たちなのだ。

私といえば卒業後劇団に入ってイヤになってやめて、結婚して3人の子どもの親になって、
万年失業のような自由業。同窓会に着ていく洋服だって貰いもの。
母親になった時には、「自分で育ててるの?! 」 とびっくり目を見張られた。
神棚にポーンと赤ちゃんを乗っけといて知らん顔、という感じだと言うのである。
離婚すると夫に会ったこともないくせに、私が我儘だから破局にいたった、と誤解な理解。
幼稚園の園長になったら複雑な顔をし、その時は賢くも沈黙していたけど、
職員と対立して辞めたというと、わが意を得たりみたいにニッコリ、
「続かないと思ってたよ、うん」
・・・まあ、そうなのよね。誤解はおたがいさまなんだろうし。
私には判らないけど、兄弟姉妹ってこういう感じなんだろうか。

今回の同窓会には個人的な事情があり私は欠席したが、二次会に来いと
疲れているだろうに、4人が20時から酒場で待っていてくれた。
早稲田のホームカミング・デイは今年が最後だそうで、その日は、
朝も早よからから思い出のセレモニー続き。
それぞれがもうトシで病気もちになって、くたびれはてているというのに。
・・・申し訳なくて、翌朝、メールでありがとうと言ったら、
しばらくたって返ってきたのが冒頭のメールだった。


政府の文学部軽視に私は反対である。
大学のクラス制を無くしてほしくない、ともしみじみ思う。
懐かしくも古風な伝統のうちにこそ、守るべきものがあると思えてならない。
人間の考えと行動は、「一生」の構えで個別にわかろうとするべきだ。
学問を人類の未来のために活かそうとすれば、忍耐のながい時間が必要だ。
それがけっきょく私たちの手元に届く英知というものである。
学問の府が、非情な政府に迎合して合理主義に終始するのでは、
まともで地味な幸福さえ、私たちみんなから奪われてしまう。

人情無くして国家の沈没はふせげないと、切実に思うのである。