2015年10月7日水曜日

辺見庸さんのブログ・考


辺見庸さんがブログで、
シールズと国会デモの在り方をムチャクチャに批判していると聞いて、
パソコンを開き、ブログを探して読んでみた。
ショックだった。尊敬していたから。

尊敬ってどういう時につかう言葉だろうか。
なにか、自分の考えだけではとても判断できないことが起こった時に、
この人ならどう考えるのか知りたい、意見をきいてみたい、そう思うことかしら。
学びたい、影響されたいという自然な思いと意思。私の場合は。

2011年3月11日。大地震と見たこともない規模の津波。そして福島の原発の爆発。
その直後のたしか日曜日、頭がマッシロ状態になった私は大船の講演会に出かけた。
大江健三郎、なだいなだ、内橋克人の三氏が「とっさにどう考えるのか」聞きたくて。
「故・井上ひさしさんをしのぶ会」が予定通り開かれたのがさいわいだった。


さて、辺見さんのブログであるが、
私が読んだ文章はしばらく掲載されて、それから削除され、今は見ることができない。
だから正確に再現して云々、ということは不可能だ。
二度と読みたくないと思ったからコピーもしなかったし。

① 辺見庸のブログがなにものかに乗っ取られたという説。
② 本人が書いたものだという説。
インターネットが「乗っ取り」「なりすまし」可能な場所だということは周知の事実だという。
すぐ削除すればいいのにと思ったけど、のっとられたら削除できないという話もある。

辺見さんという人を考えるに、
この罵詈雑言が「乗っ取った者」による行為ならば、
辺見さんは記者会見をひらき即座に否定・反撃したはずである。
それとも辺見さんは、記者会見をすることもできないほどの病気なのだろうか。

ブログの文章は、デモに参加した老若男女をやっつけ、シールズの不見識を攻撃し、
大江健三郎氏を罵り、デモ参加者の老人たち(私も勿論その中に入ってしまう)の、
身体や頭脳の欠点まであげつらって軽蔑し、 ヘイトスピーチもかくやとばかり。
この文章を読んで大喜びするのはそれこそ辺見さんが嫌悪する「安倍閣下」じゃないの。

憂鬱な時間がどんどんたって、私はいま、こう考える。
自分自身の考え方をどうしても新しくする必要がある、と。
なぜなら真実と嘘のごちゃまぜが、私たちの「国」日本のいかにも質のわるい混乱が、
来年の選挙までに、あらゆる形であふれ返るだろうから。

私自身の問題でいえば、だれが書いた文章であれ、気になってたまらなければ、
経緯(こみいったいきさつ)をまず身の回りの人たちと話あってみようと思う。
できるだけ知っている人ぜんぶと。私の友人たち、家族、息子の友達、
デマゴギ―(政治的効果をねらって流される悪宣伝)に負けまいとすればそれだと思う。

ものごとには、作られた部分と自然な部分と、ふたつの側面がある。
人間は、その両面を考えることができる。だからこれからは困ったら複数で考えたい。
私が考えたのは、、けっきょくそういうことだった。
みんなと話ているうちに浮かび上がる結論は、活字よりもずっと人間的である。

ブログを書いたのが辺見さんだとして、もしもそれが本当なら私は哀しいが・・・、
キモに銘じようとして、自分ひとりで結論を考えたことがよいことだ。
老いを避けることは誰もできない。
肉体とともに頭脳が崩壊していく自分を、叱咤激励して生きていたいとねがう。
家族と友人たちと横並びになって、素朴にゆるやかに思考の「最初の一歩」を歩くのだ。

・・・