2018年7月14日土曜日

おたがいさま


思うに、後藤さんが救急車をよびたいとなると、私を指名してくださるのは、
おととし、私がもうむちゃくちゃに後藤さんのお世話になったからだと思う。
私たちは同じ団地で、おなじ鶴三会のメンバーで、私は先ごろ亡くなった奥様
がユーモラスな日本人離れした方でもう大好きだった。
でも、そんなことでは 人と人の間にある生垣は越えられないとわかったのは、     最初の救急の時だった。奥様が亡くなる前後、私は理事会の広報担当だった。
もう全然うまくやれなくて、パソコン だのコピー機だのに手をやいて、脳天に
きてしまい、後藤さんに電話をしては、パソコンを抱えてお宅に駆けて行った。
お正月だろうとなんだろうと、〆切があるからである。
どんな時も後藤さんはかならず私を招き入れて、私の難関を見捨てなかった。
クリスチャンだからか。優しい人だからか。合理主義者だから だろうか。
たぶんぜんぶなのだろう。いつだって断られたことがない。
奥様が亡くなったのは元日で、葬儀場は一週間先しか予約できなかった。

そんな時でも、後藤さんは自分だけじゃ分からないからと、建築委員の中村さん
に電話をして「もうパジャマに着替えて寝るところだと中村さんが言ってました」
とおっしゃって。でも大丈夫ですよ、と。
そのうち中村さんがやっぱり来て下さって、これは民話のようだと私は思った。
雪の降りそうなお正月の夜、奥さんを亡くしたおじいさんと、パジャマを着替えた
おじいさんと、頭の弱いおばあさんが、相談をしているのだ。
深々と冷たい紺色の夜で、それはたいしたことで、
私は亡くなった楚子さんがすぐそこの空にいて、にこにこしていると思った。

こんなに厄介を掛けてばかりだから、後藤さんは救急車をよぶとき、
私には頼みやすかったにちがいない。
だって、この団地にはほかにいくらでもシッカリした人がいるのだ。
親切な人が 多い団地なのだ。

なにしろ、知らせていただいて、私ときたら、
「はい、救急車をよんですぐお宅にうかがいますから」
と電話を切ったはいいけど、あの時は救急車の番号を知らない、わからない。
あてずっぽうに119に電話をしたら、当り、だったのである。