2011年12月15日木曜日

しゃべらない男の子


遠く、近寄りがたい子ども。
まるで別の星に住んでいるような彼の寡黙。
しゃべれないわけではなく、しゃべらないのだときいた、ほとんど誰とも。
賢そうな大きな目。冷淡にみえる頬の線。ふっくらした唇をかたく結んで。
病気をしたので入院生活がながく、一年おくれて幼稚園にもどってきたのだ。
知的な人間になる、そういう約束がもう見えるような内省的な表情に、
なにか普通とはちがうものがうかがわれ、私はその子が好きだった。

ある日、クラスのみんなと遠足にいくことを絶対拒否したとかで
「だれもいないので、一時間ぐらい相手をしていただいていいですか」
あの子をよく知るチャンスなので嬉しかったが、不安であった。
私は社交的、相手は極端に非社交的。私は65才、あっちは5才。
ベテランの職員はこの子どもを相手に、いったいどんな時間をすごすのだろう。

・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・。
むろん、部屋のなかには沈黙がたちこめているわけで。
「本を読む?」・・・・・・「じゃ自分で遊ぶ?」・・・・・・・「ええと」・・・・・・・
・・・・・・・・・・。
私はしまいにヤケをおこし、子ども用トランポリンに腹ばいになってしまった。
長い時間がたっていく。
「向こうのパズルのほうがいいと思うわよ」 
「だってさあ、それ、あなたにはカンタンすぎると思うのよ」 
子どもは、かたかた動きまわっている。背の高い子だ。
あれで遊びこれで遊び、あれを出してこれを出して、それをしまってこれもしまって、
私を無視したまま、彼はだんだんに黒板に近づいていく。
ただ見ているのに飽きてきた私は、テーブルのほうへ歩いた。
あーあ、どうしたらよいんでしょ。
彼は絵を描いている。何本もの電信柱だ。上手である。
「ふうん、じょうずだね、電信柱?」
そうしたら不機嫌な声ではじめて口をきいた。
「木だよ!」

われながらいやになっちゃったけど、でも子どもが私のそばにきた。
だまって、大きな瞳をすえて私が難しいほうのパズルをやる手元を見ている。
なんでこうもだまっているのか。
この子は、一日中だまっている。
そんなにだまっているんだから、物音を私より何百倍も聴いているのだろう。
参加せず、聴いているだけの世界って、どんなものだろう?
私は、彼といっしょに黙ることにした。
幼稚園に就職してはじめて、「聴く」という作業に専念したのである。

詩人にして作家である人々、たとえばウィリアム・サロイヤンのような人は、
しばしば沈黙についてものがたる。彼らは、レストランで、病院で,
人生のつらい局面で、騒音が奏でる音楽に注目するのである。
そういえば、この子は、入院していたのだった。
幼い身で、病院がたてるたくさんの複雑怪奇な物音を、
ただもう聴いているしかない長い時間に耐えたのだ。

私の耳と子どもの耳が、おなじ音をきく。
・・・・幼稚園がたてる音は、いろいろだ。
風、砂、お鍋が落ちる音。ブランコの金具の軋み。あしおと。時間を告げるチャイム。
「あーっ、だめー、ごめんそれやめてーっ」
まるでテレビタレントみたいな、安手なさけび声。
こういう音をたてているのだと、ろくに考えないでつい集めてしまったモノの集積。
「幼稚園って、ヘンな音ばっかりする場所なんだね・・・」
だまってとなりで息をしている鋭い目の少年に私は言った。
どう改革することもできないし、今のままを受け入れよということばも持てないで。