2011年12月2日金曜日

映画「かすかな光へ」 ー大田 堯


幼児教育でカンジンなのは、「きらいにしない」ことである。

たとえば美術、たとえば音楽、たとえば体操。
こういうものがだいっきらい、という子どもの心のなかには、
ニンジンやピーマンがきらいというのとは、ちがうものがある。
劣等感覚、おびえ、消えない心の痛み。
そこからはじまるだいっきらいは、けっこう一生もので、ガンコだ。

おとなになって、独立したとき、
苦手やだいっきらいがたくさんあったら、どうなる?
あとずさりばっかりする若者になっていたら?

そんな結果をまねくなら、可愛がるだけのほうがずっといい。

「かすかな光へ」は、
教育学者の大田 堯(おおた たかし)先生を描いた映画だけれど、
学者という職業のもつすばらしさを、ひさしぶりに思い出した。
先生は、今では93歳になられたのだという。
しかし、こういう方は学問が、
もうなんだか「大田 堯」という人間のかたちになっちゃっているので、
由緒正しいのにユーモラス、
教育学だって、先生の人生そのものなんだから、とてもわかりやすい。
製作者たちが、大田先生の素晴らしさをよく知っているからこその映画である。

人間は、みんなちがう。
人間は、変化する。
人間は、他者と関わることでのびる。
教育という仕事は、それをお手伝いするだけだ。
この原則を現場でどう具体化させるか、という教育学。

先生は立派な人だけど、べつにだれとも似ていない。
先生は、たぶん勉強が大好きだったから、勉強を中心に変化した。
先生は自分とはちがう土壌で生活する人たちに、たえず集まってもらって、
そういう人たちから、人間について学んだことを、学問にもどした。
教育学に。

学問的態度としての心のひろさと探究心。
人をこうだなんてきめつけない好奇心。
講演をきくたび、びっくりさせられたことを思い出す。
幸福そう。90歳をすぎても一生のユメを追って。
映画を見ると、つい自分にもできそうだとサッカクしてしまう・・・・。
でもね、だれにも真似ができないとなると、教育学にならないでしょ?