2013年3月11日月曜日

3月11日


今日という日が過ぎた。

政府が国立劇場で行った記念式典の天災のみを嘆く演出のソラゾラしさ。
ここ数日間の報道に関して私がつくづく思うことは、
被災者の嘆きではなく、国民の努力ではなく、私たち日本人の怒りの表出には、
どんな多種多様なことがらがあるのだろうかということだ。

税金の流れを、被災者救出を第一に考えて、変えるべきである。

デモ。
ボランティア。
インターネットによる情報獲得。
自分はこれらの「行動」に思うように加われない。
昨日も今日も、私の生活は「自分のくらし」のなかで過ぎてしまう。

私は自分に可能な怒りの列に加わりたい。

原発が爆発したと聞いてすぐ逃げたが、親類から放射能を持ち込むなと言われ、
避難所からは満杯だからよそへ行けと言われ、すぐさま自分の家にまいもどり、
それ以後とり残された動物たちにエサをやりながら、原発から一キロの地点に、
たったひとりで生きる男の人がいることを、今日テレビを観て知った。
この人はそうやってくらす理由をきくキャスターに端的になんどもなんどもくりかえした。
「なんでって、ほっとけば死んじゃうだろ」「かわいそうだろ」
眼が怒りでいっぱいだった。
ガスも電気も切られたなかでのくらしが映し出された。

私は思う。
こういうやむを得ない怒りとともに、じぶんなりのくらし方を見つけたいと。