幼稚園のお母さんが訪ねてきてくれた。
幼稚園にいるころ、お母さんたちがとてもきれいだと思っていた。
あいさつをされたらそれを思い出した。
私は65才で急に園長になったから、
きれいな人たちの中にポツンといる、それがなかなかのストレスだった。
幼稚園のお母さんのきれいさは、真面目とか素直とか、陽気とか、
悩むけどすぐ気をとりなおすとか、ユーモアを解するとか、
賢いとか、散々なやむとか、落ち込むとか、思い込むとか、
泣くとか笑うとか、なんにもせよ、
そういうすべてが彼女たちの子どものためにある、
愛というものがまだヒネくれていなくてまっすぐなんだという、
幸運そのものがかがやく魅力である。
子どもを生んで育てるという、いわば若ければ当然のことが、
どんな人の人格をも、当然のようにかがやかせるのだ。
いっときのそういう人生の時間。
幸福だろうが不幸だろうが、
そこを出発点にして、
彼女たちは少女時代を清算し、子どもの伴走者になろうとする。
そのありかたは人それぞれだが、しかしどこか似てもいて、
だから、みんなはけっこう自然に協力しあっている。
見ていて気持ちのよいことだった。
人間を信じよう、と思いなおせる風景だった。
いま久しぶりのかがやくような表情をながめながら、
いつもだれかが、と私は思った。
これは絵本で、最近ずっと私の書き物机の上になげだしてあって、
憂鬱になったときの常備薬ふうのものだが、
「いつも だれかが」
ユッタ・バウワー 作・絵 徳間書店
そうだ、いつもだれかが幼稚園にはいてくれて。
見えない手をかしてくれ、見えないまなざしをむけてくれて。
そう、いつもだれかがいてくれたんだと、つくづくなつかしい。
幼稚園はそういう場所だったなあ、と思う。
幼稚園の子どもやお母さんたちを、数々、知っていなければ、
私などには、ヨーロッパ人であるバウワーの描いた天使なんて、
なかなか実在感をもったものになりにくいわけだ、と思い当たる一日・・・・・。