2012年2月22日水曜日

実人生と絵本「いつも だれかが」

幼稚園のお母さんが訪ねてきてくれた。

幼稚園にいるころ、お母さんたちがとてもきれいだと思っていた。
あいさつをされたらそれを思い出した。

私は65才で急に園長になったから、
きれいな人たちの中にポツンといる、それがなかなかのストレスだった。
幼稚園のお母さんのきれいさは、真面目とか素直とか、陽気とか、
悩むけどすぐ気をとりなおすとか、ユーモアを解するとか、
賢いとか、散々なやむとか、落ち込むとか、思い込むとか、
泣くとか笑うとか、なんにもせよ、
そういうすべてが彼女たちの子どものためにある、
愛というものがまだヒネくれていなくてまっすぐなんだという、
幸運そのものがかがやく魅力である。
子どもを生んで育てるという、いわば若ければ当然のことが、
どんな人の人格をも、当然のようにかがやかせるのだ。

いっときのそういう人生の時間。

幸福だろうが不幸だろうが、
そこを出発点にして、
彼女たちは少女時代を清算し、子どもの伴走者になろうとする。
そのありかたは人それぞれだが、しかしどこか似てもいて、
だから、みんなはけっこう自然に協力しあっている。
見ていて気持ちのよいことだった。
人間を信じよう、と思いなおせる風景だった。

いま久しぶりのかがやくような表情をながめながら、
いつもだれかが、と私は思った。
これは絵本で、最近ずっと私の書き物机の上になげだしてあって、
憂鬱になったときの常備薬ふうのものだが、

「いつも だれかが」
ユッタ・バウワー 作・絵   徳間書店

そうだ、いつもだれかが幼稚園にはいてくれて。
見えない手をかしてくれ、見えないまなざしをむけてくれて。
そう、いつもだれかがいてくれたんだと、つくづくなつかしい。
幼稚園はそういう場所だったなあ、と思う。

幼稚園の子どもやお母さんたちを、数々、知っていなければ、
私などには、ヨーロッパ人であるバウワーの描いた天使なんて、
なかなか実在感をもったものになりにくいわけだ、と思い当たる一日・・・・・。