2012年2月26日日曜日

朗読の教室


今回の朗読の会は、参加者の作品の選択がよかった。
初めての参加で見ているだけ、朗読はしなかった二人が、
ヒトの朗読をきくのって本当におもしろいですね、と言ったのがおもしろい。
朗読冥利?に尽きる感想ではないか。
誰だって黙ってきいているばかりじゃ、あんまりおもしろくないはずだ。
稽古事の見学というと、なおさら退屈なのではないか。
ところがである。
今回は、物語を味わい、クスクス、ハハハと聴く人が笑いどおし。
こういう幸福なことって、まあめったには起こらない。
まぐれの大当たり。読み手と物語の相性がピッタリだったのだ。

笑うって文句なく楽しい。
朗読するほうだって、聴くほうだって楽しい。
私たちは笑うとトクをしたような気になってしまう。
まぐれなんでしょ、なんてあなどってはいけない。
まぐれ当たりには、神さまがついているのだ、芸術の。
まぐれも幸運も、才能のうち。
わーいツキがきた、当たりでよかった、と解釈してほしい。

相性のよい作品を見つけるには、しかし知性の手助けが必要だ。
今回はまた、笑うおもしろさと趣きはちがうけれど、
すばらしくユニークな詩と、
昔と今の少年時代の違いがシッカリ浮き彫りになる詩が、選ばれていた。
理屈ぬきの妖怪変化の物語を朗読した人がいたのも、興味深い。
あきてるヒマがない。
黙読するより、声をだして読むほうがずっとおもしろい、という結果。
これも案外なこと、いつもこうとは限らない。

私のところでは、朗読の題材は、よみ手が自分でえらぶ。
感想や質問や思いつきは、会の途中でもどうぞ、
よみ手ときき手は平等で、そのほうが気持ちもらくである。
朗読する作品(五分以内でよめるように)の断片がウチにとどくと、
私はそれらの文章を、朗読を前提に、分析して準備をする。
朗読は黙読とはちがうので。

むかし中学生に国語を教えた。
国語ってなんだと思いますか?
はじめて授業をした時きいたら、
文法、段落にわける、意味しらべ、等々と不機嫌な中学二年生どもが答えた。
漢字、というこたえもあったっけ。
きいてないのに、国語だいっきらーい、と言う。
「そういうと思った」
私がそう言ったら、
「じゃあなあに?」「ほかにあるかよ!」「なんだよ先生?」

国語とはなんであるか。
第一。英語じゃない、ということだ。
英語じゃないとはどういうことか。日本語だということである。
第二。日本語、だぞ、国語は。
国語って、私たちが生きていくための生活のことばなんである、とりあえずは。

というようなわけで、朗読だって、まず第一に、黙読じゃないということだ。
聴いてる人がいる。お客がいる。
聞こえなくちゃいけない。わかってもらわなくちゃならない。
遊びとしては、自分がおもしろくないと聴いてる人も楽しくない。
難しいことはさておき、そうなのだ。